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「福田」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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福田原村(近世) 江戸期~明治23年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
福田保(中世) 鎌倉期~戦国期に見える保名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
福田保(中世) 鎌倉期~戦国期に見える保名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
福田荘(中世) 鎌倉期から見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
福田村(近世) 江戸期~明治23年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
福田村(中世) 織豊期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
福田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
福田村(近代) 明治22年~昭和22年の児島郡の自治体名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
福田荘【ふくだのしょう】 (古代~中世)平安期から見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
福田荘(古代~中世) 平安期から見える荘園名平群【へぐり】郡のうち①福田荘東大寺領(東大寺花厳会料田)平安後期の東大寺雑役免帳(東大寺要録6封戸水田章8)に「平群郡福田庄十九町九段三百歩 花厳会田也」とあるまた,嘉承2年正月10日付東大寺三綱等解案(東大寺図書館所蔵文書/平遺1669)に「在大和国平群郡字福田庄」とあり,当荘は内平群の土田荘とともに東大寺威儀師慶寿がその私領田20町の加地子を花厳会色衆饗料に寄進することで成立したもので,慶寿の没後,後家が私領田のうち興福寺進官免(雑役免)となっている田地を除いた公田を選んで坪付を定めたという荘田は合計7町1段余で,平群郡10条8~10里,11条7里にわたる計14か坪に散在分布した(同前)この坪付は現在の斑鳩町服部1~2丁目を中心とする地域にあたる香菜免荘園などと同様に,東大寺雑役免荘園の1つとして扱われた(東大寺文書平治元年8月日付東大寺雑役免野宮柴垣支配符/平遺3022)慶寿後家以降,相伝・売買などによって私領の細分化が進むにつれて支配の実は挙がらなくなったらしいが,鎌倉期にも存続した建保2年5月日付東大寺領諸荘田数所当等注進状(東大寺続要録/鎌遺2107)にも「華厳会色衆床饗免廿町 平群郡 福田庄 土田庄」と記される鎌倉期には田積6町で,所当花厳会米10石であった(東大寺文書建長3年閏9月6日付福田荘検田帳・文永11年9月5日付福田荘百姓等請文/同前7363・11711)文治4年正月18日付福田荘公文注進状(東大寺文書/同前297)によれば当荘は公文1人・百姓7人であるといい,文永6年福田荘百姓等連署請文(同前/同前10490)でも紀末弘ら7人の百姓が見える②福田荘大乗院門跡寄所(喜多院二階堂負所)本来,興福寺喜多院二階堂の所領であったが,鎌倉初期に同院主円綱已講が院主職を大乗院門跡信円に寄進,当荘も同門跡の知行地となったとみられる「三箇院家抄」巻2には「福田庄〈二階堂方,寄進大乗院〉八町」とある所当米のうち2石5斗(もとは4石4斗という)は二階堂負所米で,ほかに二階堂公事銭1貫文を負担したこのほか,寺門・門跡から恒例・臨時に段銭・段米・用銭・用米が賦課された享徳2年の大乗院御領段銭引付(内閣大乗院文書)に「福田庄〈給主縁舜法橋〉八丁」,寛正6年の将軍御下向寺門段銭帳(成簣堂大乗院文書)にも「福田 八丁」とある一名を「イヲノヰ」と号し(三箇院家抄1・2),現在の斑鳩【いかるが】町五百井付近に所在したらしい... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
福田荘【ふくだのしょう】 (古代~中世)平安末期~鎌倉期にみえる荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」