ケータイ辞書JLogosロゴ 船越浜(近世)


宮城県>雄勝町

 江戸期〜明治22年の村名。船越ともいう。桃生郡南方【みなみかた】代官区二十四村のうち。十五浜【じゆうごはま】の中の1漁村。仙台藩主歴代のお狩場があり,享保10年5代吉村の山追いでは「まないたぐら」でシカ288頭を射,白銀崎でシカ180頭・イノシシ24頭を捕ったという(安永風土記,修験書出)。寛永18年の村高は5石余(宮城県史)。明和年間の戸口100,神社に牛頭天王社・天神宮があり,仏宇に観音堂,寺に滝泉院と東光寺があった。廃寺に法昌院がある(封内風土記)。天明3〜4年は凶作と不漁のため「一浜飢饉の者共数大勢」となり,戸数は20戸減じた(雄勝町史)。天保5年の村高は13石余(天保郷帳)。同8年の戸数80・人口239(雄勝町史)。同11年にはさらに激減して40戸,死亡跡地55,行方不明6の空屋を現出した(雄勝町史)。嘉永3年はやや回復して戸数62,内訳は小泊【こどまり】12・船越40・荒【あら】10であった。同年の村高13石余。村民は67隻の船を所有し,タコ・コンブ・フノリ・ホソメ・イワシを生産していた(安永風土記)。大須浜阿部家の捕鯨に従事する者も多く,船越浜で鯨の解体処理をしたという(雄勝町史)。阿部家の親船の停泊地でもあり,船宿の清水屋は豪華な神棚を飾った。浜の海産物は安永・天明の頃から九州長崎を経て外国に輸出されていたようである(安永7年於長崎唐船渡俵物方御受負に付御触書留・天明4年長崎俵物方御用御触書留/雄勝町史)。慶応2年には船魂神社に石巻の船大工が1,200石船の絵馬を奉納している(雄勝町史)。また藩の御林11か銘77万4,000坪余があり,村の杉林5か所があった(安永風土記)。明治元年高崎藩取締地,以後,桃生県・石巻県・登米【とめ】県・仙台県を経て,同5年宮城県に所属。同3年の村高13石余(陸前国牡鹿郡桃生郡本吉郡郷村高帳/石巻市図書館蔵)。戸数69・人口372で男197・女175。荒の長之丞は村一番の分限者で四板船【よいたぶね】1隻を所有し桃生郡三輪田村に田畑を持っていた。当時船越浜の漁船総数は四板船1・合木船【がつきぶね】55・早波船7であった。ほかに牛12・馬3。寺に竜泉院があり,東光寺は廃寺となっている(船越浜戸籍)。同6年頃の年生産高はアワビ1,500貫・タコ1万枚・コンブ5,000貫・サケ1,600尺・イワシ3,000籠・ノリ1万2,000枚・ホソメ4,000貫。「男は捕魚を本業とし,旁ら商法を兼ねるものあり。女は海藻を採るを以て業とした」(船越尋常高等小学校沿革史/雄勝町史)。同10年の戸数74,男206・女197。50石未満の船78隻を有し,船越と荒に契約講も結ばれていた。同21年の戸数79・人口535。同22年桃生郡十五浜村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7257448
最終更新日:2009-03-01




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