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- 赤平村(中世)とは
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赤平村(中世) 戦国期から見える村名出羽国山本郡のうち天正18年12月19日豊臣秀吉朱印安堵状写に初見(戸沢文書)赤平村2,261石余(うち田182町・畑11町)とあり,角館【かくのだて】城主戸沢光盛の当知行地「あかひら」は山裾に田畑の開けた平野部という意味で,地名はかなり広範囲に見られ,戸沢領北浦郡内でも,近世秋田藩政下の角館前郷【かくのだてまえごう】・川原【かわら】・南楢岡【みなみならおか】・刺巻【さしまき】の4か村中に枝郷名として赤平村の村名がある上記朱印状写に記載の赤平村は,角館前郷村または川原村の枝郷として村名をとどめる村であり,檜木内【ひのきない】川をはさんで相対する位置から推して,この当時は1村であったと推定されるむろんそれにしても赤平村が2,261石余ではなく,この石高は赤平村を筆頭として確定した周辺村々の統計石高を筆頭の赤平村に付したにすぎないおよそ石高の範囲は,近世秋田藩政下の角館前郷・田中・川原・角館本町【かくのだてもとまち】・角館城廻【かくのだてしろまわり】・西荒居【にしあらい】・山谷川崎【やまやかわさき】・小勝田【おがつた】の8か村(慶長8年の村高1,977石余・享保14年の村高2,665石余,枝郷43か村を含む)分に該当する角館城の周辺一帯ということになり,朱印状写の冒頭に掲げたのもそのためであろう |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」