ケータイ辞書JLogosロゴ 浅舞村(近世)


秋田県>平鹿町

 江戸期〜明治22年の村名。平鹿【ひらか】郡のうち。秋田藩領。佐竹義宣は家臣茂木監物(将監)治良を派遣して小野寺光道より浅舞城を受け取らせ,元和8年一国一城令により城を破却した(秋田沿革史)。しかし街道の要衝地として,町場に元和元年から御陣屋を置き,藩主の御鷹養屋も併置,寛政7年から郡御役屋に昇格する。これに伴い町割が再編され,慶長13年大宮川の掘替工事や本町の移転,元和3年六日町の設置,竜泉寺や八幡社の現在地への移転などが敢行される。寛永8年2代藩主義隆の鷹狩り来遊など,歴代藩主の狩猟休息所ともなる。脇街道の伝馬所が置かれ,1・4・6の市日の六斎市が藩から公認されたのも17世紀中葉頃と推定される。18世紀には近隣の寄郷9か村の親郷,19世紀にはかつて親郷を勤めた下吉田村まで寄郷として差配した。町場は親郷の本郷村として発展し,藩主来秋に随行した茶匠宗味から京都文化を教化され,浄土真宗大谷派市中山玄福寺(東本願寺末寺)の住職浄因は農政経済論者として「水土録」など当時では卓越した書を著し,小場氏は名医として知られる。幕末期の天保6年浅舞商人取纏調では,繰綿扱いが大きな比重を占め,若狭紙・赤穂もの・松前ものなど遠国物品も取り扱われている。清水を利用して,酒屋12軒・染屋12軒が存在。周辺農村部では,加羽【かば】4か村という新堀【しんほり】・蒋沼【がつきぬま】・酌子沼・井野岡谷池をはじめ,豊前谷地・蛭野【ひるの】・本新平川【もとしんべいかわ】・大中島・上中野・下中野・高口・高野【こうの】・五味川・沼下【ぬました】・道川の15か村を枝郷とし,「正保国絵図」では1,440石,「元禄7郡絵図」で,1,144石と図示。両絵図で当村枝郷として図示する半太【はんた】村は18世紀に十五野新田村として独立。「享保黒印高帳」では村高3,703石余・当高2,997石余(うち本田1,232・本田並1,019・新田746),「寛政村附帳」で当高2,949石余(うち蔵分1,679・給分1,270)と認定。石高では秋田藩随一の村である。上記の本田並・新田の数値は藩政以降の猛烈な開発の結果であり,寛文年中に杉山弥七郎の開村という高野村や豊前谷地村・蛭野村など新田村であった。戸数は「享保郡邑記」で478軒(うち枝郷分130),「秋田風土記」で600軒。「雪の出羽路」では枝郷分116軒のみ数え,親郷肝煎小松田和兵衛の存在を伝える。村鎮守は八幡社か。ほかに本郷の神明社・諏訪社をはじめ枝郷ごとに枝郷鎮守をまつり,別当は修験の三光院・宝竜院・清光院。玄福寺は寺領10石を保証され,竜泉寺は秋田郡山内松原補陀寺の末寺に編入。「天保郷帳」は2,997石余。慶応3年の本郷大火で77軒焼失。明治7年浅舞学校・浅舞郵便局開設。同15年佐々木市兵衛と伊勢多兵衛の尽力で浅舞感恩講が成立。奥羽本線敷設については,湯沢・浅舞・角間川【かくまがわ】・大曲の直線路で平地等諸点有利として陳情したが横手側に敗れた。同22年平鹿郡浅舞村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7257989
最終更新日:2009-03-01




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