ケータイ辞書JLogosロゴ 新町村(近世)


秋田県>矢島町

江戸期〜明治10年の村名出羽国由利【ゆり】郡のうち矢島前郷通【まえごうどおり】のうち子吉【こよし】川の氾濫原に早くから開発され,現在の矢島町大字元町字新ラ町【あらまち】に当たる矢島陣屋絵図によれば外町としての位置にあった(秋田県史)慶長7年〜元和8年最上氏領,同8年本多正純領,同9年〜寛永17年内越氏領,同17年から矢島藩領慶長17年という「由利郡中慶長年中比見出検地帳」に新町村と見えるのが初見「正保国絵図」では当高181石余正保3年の「知行高帳」に185石余(うち田方185石・畑方6升)とあるほかに旱損・新田有りと見えるところから,旱魃の被害にあいながら開発が進められた元禄15年「知行高辻帳」185石余,「天保郷帳」200石余宝暦6年「御領分覚書」によれば193石余(うち本田191石・新田2石),家数14軒・人口47(うち男30・女17),御代官斎藤徳右衛門,大名主半田亦右衛門,小名主勘兵衛,組頭佐治右衛門・吉兵衛・長右衛門・才兵衛・専太郎とある延宝年間の矢島百姓騒動の際,同8年当村裸森において首謀者和光院等10人の処刑が行われ(鳥麓奇談),現在和光院塚として残る村鎮守八幡社明治10年須郷田【すごうだ】村・九日町村・新所【あらどころ】村と合併して元町【もとまち】村となる(元町村誌)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7258072
最終更新日:2009-03-01




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