ケータイ辞書JLogosロゴ 石田村(中世)


秋田県>雄和町

 戦国期に見える村名。出羽国豊島郡のうち。初見史料は,天正19年正月吉日「秋田郡御蔵入目録写」に,「たからか村・石田村」302石余と記載(秋田家文書)。前年暮の太閤検地の結果,豊臣秀吉が秋田実季領であった両村を太閤蔵入地に指定,実季にその管轄を委ねた村である。慶長2〜6年,秋田家から豊臣方に報告した「御蔵入御物成納帳」は5冊とも「たからか村・いし田村」を並記し,目録記載の302石余を固定して,豊臣方へ納入の物成率を記す。慶長2〜5年には14〜17%,同6年8%である(同前)。「慶長6年秋田家分限帳」では,実季の一門秋田(湊)兵右衛門の代官所支配下の村として,「豊島庄之内田からか村」228石余,「同石田村」182石余と記載。秋田氏領となる以前は,両村ともに出羽国豊島郡下の村であったことを伝える。ところで「たからか村」を太平川支流域の宝川【たからがわ】村と比定すると,その近辺に石田村の存在した痕跡を見出しがたく,石田村を当地に比定すると同様に,近辺に「たからか村」を確認できない。両村をそれぞれの地に比定すると,豊島郡の北と南に距離が離れすぎる。上記の目録で,同様の例は寒川【さむかわ】村と式田【しきた】村など2,3例ある。太閤検地時の秋田氏家臣知行形態を反映したためかと臆測し,今は暫時,石田村を当地に比定しておく。東方山麓の堤池は秋田氏領下の頃に構築されたと伝えられ,近世の大旱魃時にも干上がることはなかったという(町史)。堤のあたりにまつる山田の観音堂はこの頃の開基といい,佐藤家を草分けとする。天正19年時の石高と「慶長6年秋田家分限帳」記載時の石高に開きがあるのは,両村合計分とはいえ,このような開発の結果であったとみられる。この時期の石田村は東接の妙法【みようほう】村も含むと推定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7258155
最終更新日:2009-03-01




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