ケータイ辞書JLogosロゴ 稲庭(中世)


秋田県>稲川町

 南北朝期から見える郷村名。出羽国雄勝郡のうち。貞和5年12月29日熊野先達檀那系図注文案に「出羽国山北山本郡いなにハ殿・かわつら殿」とあるのが初見史料(米良文書)。雄勝郡内の稲庭・川連【かわつら】の地を苗字としていた小野寺一族とみられ,地名の成立が先行している。流布する「小野寺系図」の多くは近世時作成であるが,建久元年大河兼任の乱平定後,雄勝郡地頭職に補任された下野国御家人小野寺通綱が,所務執行のために,四男重道を派遣し拠点としたのが稲庭であると伝える。鎌倉中期に経道が構築したという稲庭城(鶴ケ城)は,大森山を背後にした堅固な山城であり,皆瀬川流域迫を眺望し,水系を扼す地点にある。皆瀬川から取水し迫を潤す中世期造成の五ケ村堰【ごかそんぜき】は稲庭内堀【いなにわうちぼり】ともいわれた。雄勝郡内に蟠居する小野寺一族が下野国小野寺惣領家から自立するのは,応永年間といわれ,中でも勢力を強めた稲庭系小野寺氏から,戦国初期に稙道【たねみち】が出て,雄勝・平鹿【ひらか】両郡を制覇し,宗家の居城を沼館城,次いで横手城に移す。天正18年当時の稲庭城主は稲庭道勝であり,この時点でも一族の川連・三梨・東福寺各氏らの盟主的立場にあった。太閤検地で稲庭領は太閤蔵入地に指定され,城主の指出高1万刈(70石=70貫文)のうち3分の2を上納させられている。当時の稲庭領は現在の皆瀬村一帯までも含む領域であった。稲庭氏菩提寺の曹洞宗嶺通山広沢寺は城の東南麓小沢に長禄元年の開基。境内に文明3年小野寺道忠の五輪塔墓がある。その他,真言宗金米山長楽寺・曹洞宗亀像山善竜寺を付近に再興,熊野三社を勧請(大永7年奉納の懸仏3躰は県重文),三島神社など10社をまつっている。蔵入地代官として乗り込んだ最上勢との抗争の中で,慶長2年城は落ち,同6年小野寺家改易を迎える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7258221
最終更新日:2009-03-01




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