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- 岩瀬村(中世)とは
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岩瀬村(中世) 鎌倉期~南北朝期に見える村名常陸国南郡大枝郷のうち南北朝期には岩瀬郷とも見える正和5年閏10月16日の大枝郷地頭野本時重覆勘状案に,「新々田者,和与以後令開発荒野之地也,〈岩瀬村是也〉,然者於岩瀬村者,云下地,云所務,敢無社家之綺」と見え,当村は嘉禎3年に鹿島社大禰宜家と地頭下河辺政義の後家淡路局との間で行われた鹿島社領大枝郷の下地中分以後,文応元年までに開発されたもので,すでに承元元年までに開発されていた栗俣村が「本新田」とよばれたのに対し,「新々田」とよばれ,文応元年淡路局から孫の尼浄妙へ譲与されたこの覆勘状案は地頭野本時重が,鹿島社大禰宜中臣能親の訴えにより,新田押領の罪で所領を幕府に収公させられたことの不当性を訴えたものである当村は浄妙の嫁した大胡氏のもとに相伝され,建武元年12月日の大禰宜高親社領并神祭物等注文案に「岩瀬村地頭大期(胡)上総入道跡 同前(社家分下地押領之,神祭物抑留之)」と見える(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ)貞治4年にも高親は,幕府に大胡氏の岩瀬郷押領を訴えているが,大胡秀能は,「於彼岩瀬郷者,本主益戸左衛門尉新田開発為後閑堀内之間,自往古到于今,無所役所也」と反論している(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)現在の玉里村下玉里付近に比定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
岩瀬村(中世) 戦国期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」