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「裏町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

裏町(近世~近代)


江戸期~昭和40年の町名江戸期は出羽国平鹿【ひらか】郡のうち秋田藩領通称で内町【うちまち】といわれた横手給人居住地の北部に位置する横手裏町ともいう町名の由来は,...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7258373]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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裏町(近世~近代)

江戸期~昭和29年の町名江戸期は豊浦郡赤間関に属し,長府藩領稲荷町の西にあり南北に細長い町筋で,「筑紫紀行」に「裏町といふにも揚屋町のありし由なれど」とあり,稲荷町遊郭に関連して茶屋,料理屋が立ち並び,のちには芝居小屋もできた地名の由来は,海岸通りから見て裏手にあるからという説と,稲荷町の裏通りにあるからという説がある(下関市史)当町は奥小路町と呼ばれていた時期があったようである(関の町誌)寛政4年の家数は98・人数251,うち男96・女155(赤間関在番支配下の人口調/下関市史)天保9年の人別控によれば,家数82・人数285(武士,神官,僧侶を除く)で,商家で占められている(赤間関人別帳)当町の堺屋に,高杉晋作の愛人おうの(のちの東行庵初代庵主谷梅処尼)が芸妓として勤めていた(関の町誌)明治6年に芝居小屋の弁天座が建てられた同座は同14年2月,稲荷町大阪屋から出火した火災で類焼,再建後は下関劇場界の王座を占めたが,映画界の隆盛とともに衰微,昭和17年下関宝塚劇場と改称して映画館となったが,昭和20年の空襲で焼失した(下関市史)当町内の小字・小名に横小路・長崎小路があった(県風土誌)明治12年赤間関区,同22年赤間関市,同35年下関市に属す世帯数・人口は,大正14年47・302,昭和10年40・197(男84・女113)同20年の空襲で町の大半を焼失同29年赤間町・幸町となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

裏町(近世~近代)
江戸期~昭和15年の町名江戸期は城下町伊勢崎の町人町「伊勢崎風土記」に町名が見える(県史料集2)本町の南へ,同町と並行するように東西に町並みを形成町名は,城下町の中心本町の1つ裏にあたることによる寛永19年の検地帳(伊勢崎市立図書館蔵文書)による名請人筆数20なお同検地帳には茂呂越町が見えるが,同町はのち当町と西町に吸収された「伊勢崎町新古日記」の宝暦13年屋並間数・軒数等書上(同前)によれば,間数は西町角から本光寺前木戸まで106間,本光寺前から茂太夫角まで51間で計157間,家数45うち店借12本光寺は浄土宗の寺院で,元亀3年のちに西町内となる和尚崖から移転してきたほかに天台宗宝西寺もあった同寺は飯福神社の神宮寺飯福神社は元徳元年現地へ遷座してきたといい,その前所在地は不詳このあたりの鎮守で,大正15年伊勢崎神社と改称した明治18年の戸数81同44年の戸数87・人口452世帯数・人口は,大正9年103・468,昭和5年136・607,同15年138・577町名は,明治22年から伊勢崎町の通称町名として存続昭和15年宮元町と改称する...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

裏町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治22年から一時期上ノ山を冠称江戸期は上山【かみのやま】城下のうち町名は城下町の中心十日町の東裏にあたることに由来する村高は,天保13年の村山石高帳,「旧高旧領」ともに286石余元禄11年の川西村々差出帳(県史13)によれば村高286石余,反別は田10町9反余・畑15町3反余家数・人数は元禄11年77軒・377(人別宗旨改帳),宝暦11年52軒・268,天保9年73軒・330(上山市史上)旧山形県を経て明治9年山形県に所属同11年の一覧全図では,反別49町2反余,戸数76・人口488,大川学校がある寺院は浄土真宗本願寺派法円寺明治11年南村山郡に属し,同22年上ノ山町,昭和29年からは上山市の町名となる一部が昭和50年松山1~3丁目の各一部,同51年石崎1~2丁目・河崎3丁目の各一部,同52年金生【かなおい】1丁目・八日町・東町の各一部,同53年長清水1~3丁目・美咲町1~2丁目の各一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

裏町(近世~近代)
江戸期~昭和29年の町名明治9~22年は西尾を冠称江戸期は西尾城下の1町馬場町の通りに並行して,その西側を南北に裏町通りがある西尾城総構えのうち,城下町部分の西端に位置する西側は土居と堀,堀の西は谷底平野が南から北へ入り込む低地南に鶴ケ崎天満宮,北は馬場町盛巌寺がある地名は,馬場町の裏にあたることによる(西尾町史)西尾城下町の西端を土居に沿って南北に細長く延びた町西尾城主井伊氏時代の絵図に「侍町,長サ行留リマテ百間」とあり,元治元年の西尾城・城下町図にも「侍屋敷」とあり,馬場町同様古くから藩士の住宅地であった明治22年西尾町,昭和28年からは西尾市に所属明治25年の戸数7・人口45,うち医師1昭和元年の世帯数20・人口143同29年弥生町と改称...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

裏町(近世~近代)
江戸期~現在の町名近世には出羽国秋田郡大館町内町のうち秋田藩領大館城に南接し,城門の裏手に位置して町名とする南は沢を隔てて向町,東は部垂【へたれ】町に接する宝永3年検地帳では大館給人16軒の町と記載羽黒派行人寺の宝泉寺がある元和7年庄内湯殿山大日坊より五智如来を申し請け,佐竹式部義成以後の大館城代からも代々年20石を寄進され,湯殿山代参を続けた寺であったが,延宝4年4月第3世円寿院当海のとき出火し,大館の内町・外町の90%,寺院の大半を焼失する大火の因をなした明治10年東大館町裏町となり,同22年から大正2年まで北秋田郡大館町東大館裏町となり,以後は大館町裏町昭和26年からは大館市裏町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

裏町(近世~近代)
江戸期~大正15年の町名明治5~20年頃までは上野を冠称江戸期は伊賀上野城下町の1町で,町人地城下町の東南に位置する地名の由来は,寺町の裏側にあたることにちなんだものという天和年間頃の家数12(統集懐録)明治5年の戸数73・人口328(うち男175・女153)明治22年上野町に所属同年からは大字上野のうち大正11年伊賀鉄道が地内を南北に通過同15年伊予町と改称...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

裏町(近世~近代)
江戸期~昭和15年の町名江戸期は新発田【しばた】城下の1町武家屋敷地町並みは,城の西北側,西ケ輪と尾上町の中に挟まれ並行して続く町名は,西ケ輪の裏手にあったことに由来するという天保11年頃の絵図には24軒の藩士名が見える明治22年新発田本村,同34年からは新発田町に所属昭和6年の世帯数79・人口351同15年新明町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

裏町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治22年まで角館【かくのだて】を冠称享保期は家数31軒の武家町(享保郡邑記)表町と対して裏町と称した(角館誌)明治22年角館町裏町となる江戸期洋風画秋田蘭画の小田野直武が生まれた...

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