ケータイ辞書JLogosロゴ 金沢中野村(近世)


秋田県>横手市

 江戸期〜明治23年の村名。出羽国仙北【せんぼく】郡(寛文4年までは山本郡)のうち。秋田藩領。「政景日記」元和6年閏12月条に当村百姓肥後から,金沢伝馬町の子供に対する記事があるのが初見。「正保国絵図」には金沢前郷【かねざわまえごう】村の枝郷中野村として郷形のみ図示。「元禄7郡絵図」では金沢中野新田村2,039石余と図示。「享保郡邑記」によると,延宝7年の検地で金沢中野新町村として独立し,金沢本町村と延宝10年から15日交代で駅場を勤め,その際には金沢新町と称したとある。枝郷十二処【じゆうにしよ】(十二牲)・八来沢【やぎさわ】(矢来沢)・新小屋【にいごや】・十文字・沢村の5か村を擁し,戸数65軒(うち枝郷分12)。宝永〜享保年間の郡村改めの際,金沢中野新田村を分出して金沢中野村となり,「享保黒印高帳」の村高856石・当高916石(うち本田762・本田並113・新田41)。「寛政村附帳」には親郷金沢前郷村の寄郷,当高696石(うち蔵分620・給分76)と記載。「天保郷帳」は2,160石,金沢中野新田村・金沢本町村を含むと推定される。文政期以降になると金沢本町とともに困窮によって駅場人馬賃銭の値上げがしばしば行われている(町触集)。明治5年の駅場存置歎願書には,当村を「余勢も之れなき貧村の村居」と規定し,駅場従事以外の主要な職業がないことを訴えている(横手郷土史年表)。神社は十二所権現社・熊野社・矢木沢観音社・山神堂など。寺院には浄土真宗池中山光蓮寺(東本願末寺),浄土真宗摂取山得浄寺がある。大松川村の黒森沢山を入会原野とし,明治5年役銀63匁を納入して家数111・【なた】数37に限り用益(赤水沢矢矧沢役山書上帳)。同6年金沢中野新田村を合併。「横手郷土資料」では同9年の戸数158・人口966,耕宅地の面積238町余(うち田201・畑23・宅地14)。同23年仙北郡金沢村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7258802
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ