ケータイ辞書JLogosロゴ 上樋口村(近世)


秋田県>平鹿町

 江戸期〜明治22年の村名。出羽国平鹿【ひらか】郡のうち。秋田藩領。元和元年9月15日小野寺旧臣佐藤弥惣昭信らが藩家老向宣政から樋口開発の指紙を得て開発した結果,翌2年樋口村を上・下に分村し上樋口村が成立したという(雪の出羽路など)。寛永13年頃には主殿堰等を通し,注進開の開田もあった(平鹿郡村々御開御注進書付)。延宝3年に横手町に移住し野御扶持町【のごふちまち】を形成した佐竹氏の足軽たちが開発に投入された地でもある。「正保国絵図」では下樋口村を枝郷として,上樋口村1,054石と図示。「元禄7郡絵図」では下樋口新田村694石余を分出して,なお1,054余の村として図示。ただし両村の位置関係は,当村が樋口城址から本堂【ほんどう】にかけての位置,下樋口村が当村より37丁西の浅舞【あさまい】北方に描かれ,宝永〜享保年間以降の両村の位置と逆の関係にある。両村の中間に客殿薊谷地新田【きやくでんあざみやちしんでん】村が成立し,下樋口新田村が下樋口村と改称した頃に,上・下の名称も代わったものであろうか。享保年間以降の上樋口村は,樋口城址西麓から浅舞村に至る地域を占め,田野尻・沖田・石ノ塔・藤島・松館・金屋の枝郷6か村を擁し(19世紀には松館・金屋両村が消え,萩ノ目村が加わる),「享保黒印高帳」では村高732石余・当高657石余(うち本田409・本田並133・新田115),「寛政村附帳」で当高664石余(うち蔵分29・給分635)と認定。戸数は「享保郡邑記」で50軒(うち枝郷分37),「秋田風土記」で55軒。「雪の出羽路」では45軒・257人(仮肝煎亦吉・八太郎)・馬39頭と記載。親郷は18世紀には下吉田村,19世紀には醍醐村。村鎮守は神明社。ほかに萩ノ目に上宮太子社,松館・石ノ塔に稲荷社をまつる(明治43年松館稲荷神社を中心に合祀)。「天保郷帳」は657石余。明治16年沖田分教室設置。同21年の戸数71・人口495,田125町・畑5町・山林原野15町歩余(醍醐支所資料)。同22年平鹿郡醍醐村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7258908
最終更新日:2009-03-01




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