ケータイ辞書JLogosロゴ 川向村(近世)


秋田県>皆瀬村

 江戸期〜明治22年の村名。出羽国雄勝【おがち】郡のうち。秋田藩領。慶長元年稲庭村より分村したというが(郡村誌),「正保国絵図」では村名は見えない。当村の地域には稲庭村の枝郷として板戸【いたど】村・仙翁【せんおう】村の郷形を図示。「元禄7郡絵図」で仙翁村を川向新田村と改称し,板戸村・男安【おやす】村を当村枝郷として470石余と図示。18世紀初頭に新田の字をとる。「享保黒印高帳」で村高840石余・当高599石余(うち本田288・本田並68・新田243)。享保期に市野の清兵衛が忠進開し検地を受けている(小南家文書)。「宝永2年黒印高帳」では当高549石余,「寛政村附帳」は当高585石余(うち蔵分240・給分345),「天保郷帳」は599石余。山村であるうえに皆瀬川の河岸が崖地で水不足に悩み,桁倉【けたくら】沼や貝沼からの堰普請のため貞享年間から文化年間まで営々として周辺の村々から補修人足・費用を拠出している(高橋家文書)。戸数は「享保郡邑記」で341戸(うち川向分49),「秋田風土記」で250戸。枝郷は享保期から明治初期まで長石田【ながいしだ】・藤倉・白沢【しらさわ】・仏師ケ沢【ぶつしがさわ】・菅生【すごう】・瀬野ケ沢・貝沼・皿小屋【さらごや】・小安【おやす】(男安)の9か村が存続し,板戸・新沢【あらさわ】・大谷地【おおやじ】・野中・市野・雨生【あんにう】・穴沢・水沢・若畠【わかはた】の9か村が興廃。村鎮守は八幡神社(瀬野ケ沢)。他に白沢の熊野神社,朴坂【ほおのきざか】の奥宮神社および修験大学院・法正院があった。南の大高遠【おおたかとお】山中にある栃湯【とちのゆ】は明和年間より湯治場として広く利用された。戊辰戦争では板戸が戦場になったという。明治9年新検改租対象地は田206町余・畑134町余・山林原野823町余,戸数266・人口1,408(郡村誌)。明治22年雄勝郡皆瀬村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7259011
最終更新日:2009-03-01




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