ケータイ辞書JLogosロゴ 木戸石村(近世)


秋田県>合川町

 江戸期〜明治22年の村名。出羽国秋田郡南比内のうち。秋田藩領。慶長7年7月,佐竹氏が米内沢【よないざわ】城に派遣した赤坂朝光の施政に対して,一揆が勃発した際,当村の浅利旧臣佐藤氏は二派に分かれ,佐藤宮内・信濃らは一揆に加担して討たれ,佐藤大学は隣村悪麻沢【あくまざわ】村の杉淵数馬らと一揆鎮圧に功をあげたという。大学の子孫は代々当村肝煎を世襲した。慶長8年の村高295石余と推定。「正保国絵図」「元禄7郡絵図」ともに348石の村と図示。しかし阿仁川からの堰用水開削などにより,新田開発も進み,宝永〜享保年間に南方に八幡岱新田【はちまんだいしんでん】村を分出。「享保黒印高帳」では村高567石余・当高349石余(うち本田197・本田並71・新田81),「寛政村附帳」で当高401石余(すべて蔵分)と認定。「天保郷帳」は349石余。戸数は「享保郡邑記」から「秋田風土記」まで95軒。この間の「寛政郡邑記」では497人・馬130頭とある。親郷不設置の大阿仁下郷7村に属し,年行事が郷用を勤める寄郷村。村鎮守八幡社のほか,諏訪社・神明社・稲荷社・愛染社・金毘羅社・薬師堂をまつり,曹洞宗岩松山樹温寺(米内沢村竜淵寺末寺)および修験専寿院があった。樹温寺は寛永17年に岩松沢から現在地に移転,木割観音像・三十三観音像を安置し,文政7年寺中10ケ条定書などを温存している。阿仁川河口部の立地に恵まれた当村には,元禄13年から9・19日の二斎市開催の市株が許可。一時中絶の危機もあったが,明治初期に李岱【すももだい】村に移転するまで続く。集落対岸部の秋田杉の美林地帯は「芦沢」の名称下,藩政初期から藩の御直山に指定。当村はその麓村として管理に従事。芦沢の下流部および東方の大野台台地が当村の入会山である。明治6年木戸石学校開設。同19年コレラ流行を契機に翌年村医を招聘,駐在所も設置。同22年北秋田郡大野村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7259063
最終更新日:2009-03-01




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