ケータイ辞書JLogosロゴ 金光寺村(近世)


秋田県>山本町

 江戸期〜明治9年の村名。山本郡(寛文4年まで檜山郡)のうち。秋田藩領。藩政初期の街道整備により,当地は羽州街道と野代大間越街道の分岐点となり,当初は分散していた枝郷古屋敷・下金光寺の両村も分岐点の金光寺本郷地区に移住し,「享保郡邑記」では30軒の集落形成と記載。集落の北端に両街道の一里塚がそれぞれ設置され,とくに金光寺村から大内田村までの野代道には正徳2年以後野代町の問屋小玉市右衛門が松並木を植林したという(能代市史稿)。元和年中より金光寺野の開発も用水不足の困難をおして徐々に進展。「正保国絵図」「元禄7郡絵図」ともに85石の村と図示するが,「享保黒印高帳」では村高324石余・当高297石余(うち本田108・本田並108・新田56)と認定。17〜18世紀の開発がかなり進展したことを伝える。しかし金光寺野の雑木林は御札山に指定され,その余りが外岡・豊岡・森岡・鵜川【うかわ】・川尻【かわしり】・久米岡新田【くめおかしんでん】など周辺農村の入会地となり,当村からの開発をめぐって紛争を多発した(三浦家文書)。「寛政村附帳」では当高212石余(うち蔵分32・給分180)。親郷は当初は森岡村,安永年間以降は豊岡村。「文化7年南山本郡書上帳」(近藤家文書)では,当高221石余・29軒・159人・馬53頭・村有林4・私有林5・堰4・石持堤1とある。「天保郷帳」は291石余。元禄7年の地震で6軒が倒壊,享保元年の火災で14軒焼失とある(佐竹家譜)。村鎮守白山権現社のほか,神明社・修験白峰山宝光院(金光寺とも称する)がある。明治9年豊岡村・和田村と合併,豊岡金田【とよおかきんでん】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7259074
最終更新日:2009-03-01




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