ケータイ辞書JLogosロゴ 金浦村(近世)


秋田県>金浦町

 江戸期〜明治22年の村名。由利郡のうち。元和8年まで最上【もがみ】氏領,元和9年より仁賀保【にかほ】領,寛永8年酒井預り地,寛永17年より本荘藩領となる。慶長17年30軒余(金浦年代記)。元和9年の村高124石,諸役として夜廻役銀4匁・山手役銀2匁2分・菅莚20枚,船17艘で1艘につきタラ4本であった。寛永18年,酒井領から本荘藩領になることをいやがり酒井家役人稲垣忠右衛門へ村名主が陳情を繰り返している(金浦年代記)。本荘藩領になってからは金浦郷代官が置かれ,金浦港と金浦郷の支配に当たった。慶安2年港から諸役として1貫204匁が徴収されており,藩の銀収入の5.8%に当たる。承応2年の漁船はタラ船・手繰り船合わせて22艘。享保15年の村高378石(うち本田124・免5.8,新田254・免3.28),「天保郷帳」では354石。明暦頃から藩により新田方加嶋与左衛門が派遣され,大谷地・京(経)塚・岡の谷地・森の谷地で用水路の建設を中心とする積極的な新田開発が行われた。新田による村高の増加,それに漁業,加えて清兵衛・儀右衛門両家による造酒屋などから経済的にも富裕な村となり,幕末に町人給人になった井口【いのくち】家があるほどであった。そのためしばしば藩による御用金徴収の対象地となり,弘化5年には400両を上納している(金浦年代記)。正保元年9月18日の地震で潰家28軒,元文2年12月29日の大吹雪でタラ船が転覆し水死86人を数え,宝暦12年に犠牲者冥福のため阿弥陀石像が建てられ,その付近を地蔵町と称している。文化元年6月4日の象潟【きさかた】大地震では3m余隆起し,無事な家は1軒もなく,金浦の澗も破壊され,死者10名余であった。本荘藩最大の政治騒動,文化10年の内本一九郎事件の黒幕の1人六郷外記が事件直前,北向に隠居所を構えている(文化8年)。天保6年藩が困窮した庶民へ米を貸しつける夫喰米【ふしよくまい】給付に関して不正があるとして村方騒動(金浦一件)が起き,村役人側に処分者が出ている。寛政年間頃より堂林【どうばやし】で素人歌舞伎がしばしば行われ,出し物は浄瑠璃の三大傑作が好まれた。明治9年の戸数231・人口1,189(うち男558・女631)・馬45,船89艘(うち漁船79)。小学校の生徒数125人(うち男107・女18)。浄土宗安養山浄光寺(芝増上寺末寺)・浄土真宗弥光山浄蓮寺(秋田浄願寺末寺)・金浦山神社がある。明治9年赤石村を合併。同22年由利郡金浦村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7259291
最終更新日:2009-03-01




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