ケータイ辞書JLogosロゴ 根田村(近世)


秋田県>合川町

 江戸期〜明治22年の村名。出羽国秋田郡南比内【みなみひない】のうち。秋田藩領。慶長8年の村高221石余と推定。「正保国絵図」では根田新田村233石,「元禄7郡絵図」も根田新田村222石余と図示。新田村扱いであった。東根田の草分け百姓加藤家が鹿毛左衛門沢堤を築き,屋敷前田面を開発し,西根田の金田家も同様に集落背後の山中処々に堤を築き開田した,と伝えられる動向が新田村認定の背後に存在する。天和3年「小阿仁之内根田村」打直検地野帳では,田畑屋敷合計33町4反余(うち田地16町5反)・分米252石余(うち本田232・新田28)・家数27・263人とあり,東根田村御蔵屋敷が除地扱いとなっている(成田家文書)。新田は畑の地目転換が主であったと推定される。宝永年間に正式に新田の字をとり根田村となり,「享保黒印高帳」で村高273石余・当高238石余(うち本田195・新田43),「寛政村附帳」では当高268石余(すべて蔵分)と認定。「天保郷帳」は238石余。戸数は「享保郡邑記」「秋田風土記」ともに53軒。寛政年間には西根田が本郷の位置を占め,東根田は枝郷扱いである。西根田西方の広大な秋田杉の美林地帯は,「下大内沢」の名称下に藩の御直山に指定,当村は三里村とともに麓村としてその管理に従事。宝暦5年には阿仁銅山のための銅山木山が当山に入山。親郷不設置の小阿仁地方の1村として,年行事が郷用を勤める。加藤・金田両家や近世初期に入村した太平城主大江氏家臣の桜田家などが当村の肝煎家。19世紀には隣村芹沢村肝煎が当村肝煎を兼務。村鎮守は東根田の稲荷社,西根田には神明社をまつる。東根田の地蔵堂は難病救済の伽羅陀山様【からだせんさま】として信仰を集めた。ほかに修験金剛院がある。金田家は根田薬製造元として知られ,関係文書や「西根田村郷中日記」などを現存。マムシの毒消し・梅毒薬・骨継薬の処方箋医として知られる金森家も当村在住。嘉永6年旱魃時に堤池が干上がり,三里村堰筋からの分水を仰いだという。慶応3年東根田村27軒・西根田村34軒。戊辰戦争時,西根田村村民全員が山中に避難。明治22年北秋田郡下小阿仁村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7259342
最終更新日:2009-03-01




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