ケータイ辞書JLogosロゴ 左手子村(近世)


秋田県>雄和町

 江戸期〜明治22年の村名。河辺【かわべ】郡(寛文4年から豊島郡)のうち。秋田藩領。「正保国絵図」で127石,「元禄7郡絵図」で137石余と図示。南端を流れる雄物川は亀田藩領に属し,岩城氏はこの地点通航の川舟から川舟役運上を徴収。延宝7年亀田藩側で従来どおりの上り船運上だけでなく下り船にも賦課しはじめたために紛争が発生。秋田藩側では,小種【こたね】村から当村までの向野原【むかえのはら】に新川開削まで計画し,物資も一時陸上運送したが,失敗。安永元年幕府の仲介により向野村を亀田藩に割譲することで,川舟運上の件が落着した。藩政期を通じ,当村に2人扶持の山拠人1人が設置されていたといわれる(羽陰温故誌)。藩境の要地として,周辺山林が藩から御直山に指定されていたためらしい。「享保黒印高帳」では村高248石余・当高212石余(うち本田100・本田並38・新田74),「寛政村附帳」で当高174石余と認定。親郷野田高屋【のだたかや】村の寄郷である。戸数は「享保郡邑記」「秋田風土記」ともに34軒。肝煎に佐々木家がある。村鎮守は山王権現社(別当は女米木【めめき】村修験大王寺,明治維新後に村社日吉神社と改称)。ほかに稲荷社・保食社・金毘羅社・大日社・天満宮・鹿島社・三峰社の小祠をまつる。女米木村からの渡舟がある。「天保郷帳」は212石余。「郷村誌」では34軒・168人・馬40頭と記載。明治11年平沢【ひらさわ】村を戸長役場とする13か村と連合。同22年河辺郡中川村の大字となる。当時の村勢は,戸数33・人口214,田45町・畑18町・山林原野35町歩余。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7259403
最終更新日:2009-03-01




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