ケータイ辞書JLogosロゴ 下黒瀬村(近世)


秋田県>雄和町

 江戸期〜明治22年の村名。当初は最上氏領由利【ゆり】郡内に属し,慶長17年6月28日「由利郡検地帳写」に,羽根川【はねかわ】郷6か所のうち黒瀬村と記載。その後由利郡下浜【しもはま】郷黒瀬村と称し,元和9年以後,亀田藩領に属したというが(羽陰温故誌),秋田藩側の主張では,当初豊島郡黒瀬村は佐竹氏の管轄下にあり,亀田藩成立期に岩城氏に属した由利郡百三段【ももさだ】郷3か村を秋田藩領に組み込む代償として,黒瀬村ほか4か村を岩城氏方に渡したという。「正保国絵図」では豊島郡黒瀬村523石と図示。絵図作成の基礎台帳となった正保3年5月28日「高目録」では,523石(うち田519・畑4)と表示。秋田藩側作成の「郷村御調覚書」に,「百三段御引替之事」と題して黒瀬村をめぐる動向を記載。寛文4年以後幕末まで河辺郡内の黒瀬村として亀田藩領となる。「元禄7郡絵図」では522石余と図示。同藩内に内越の黒瀬村があり,それとの関連で下黒瀬村を称したというが,その真偽も時期も未詳。「羽陰温故誌」では由利郡大正寺【だいしようじ】郷13か村中に下黒瀬村を記載。また河辺郡内にも記載。藩・郡境に位置し,亀田藩領となった経過などから,管轄は流動的であったらしい。享保年間の戸数67,天保年間の戸数72という(町史)。肝煎に吉岡・伊藤・阿部の3家が知られる。村鎮守神明社(鶴ケ崎神社)のほか,八幡社があり,ともに中世以前の勧請という。野中に浄土真宗妙光山正覚寺(加賀国光徳寺末寺),町屋敷に浄土宗中野山広源院善正寺(江戸の芝増上寺末寺)がある。下黒瀬沢の大堤は文化年間に亀田藩御用人工藤要左衛門が大改修したと伝える。「天保郷帳」は河辺郡黒瀬村623石余と記載。明治11年平沢【ひらさわ】村を戸長役場とする13か村と連合。同22年河辺郡川添【かわそえ】村の大字となる。当時の村勢は,戸数76・人口501,田106町・畑19町・山林原野54町歩余。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7259524
最終更新日:2009-03-01




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