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「鷹匠町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

鷹匠町(近世~近代)


江戸期~昭和41年の町名久保田鷹匠町・秋田鷹匠町ともいった江戸期は出羽国秋田郡のうち秋田藩領久保田城下町の1つ成立は寛永8年6月20日とあり(政景日記),御鷹匠...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7259837]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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鷹匠町(近世~近代)

江戸期~現在の町名昭和47年からは1~2丁目がある江戸期は高知城下郭中の1町で,明治初年高知街,同22年からは高知市の町名となる郭中南詰に位置し,町名は,御鷹部屋が置かれ,鷹の飼育・調教を職とする鷹匠が居住したことにちなむ西は外堀を挟んで上町の南奉公人町,東は池を挟んで八軒町,東西に1町33間1尺の町(南路志)北は中島町・金子橋南には,郭中堤防と鏡川大堤防の間に馬場が設けられており,南馬場と呼ばれた(高知沿革略志)また町の中央部には東西に堀があり,堀の北側の町筋を内鷹匠町,南側の町筋を外鷹匠町と称したこの堀は,寛永~慶安年間の城下町絵図によれば,町の東詰を堤外に通じた徳か越戸通から南奉公人町境の堤防まで長さ160間余,幅4間に及んでいたが,順次埋め立てられていき,文久元年までにすべてが屋敷地となった(同前)元治元年から同2年にかけて東端に16代藩主山内豊範の別邸が建てられたが,明治維新後は山内家の本邸となり,第2次大戦後は一部がホテル三翠園となったなお旧山内家下屋敷の長屋が現在国重文としてその一角に保存され,一般に公開されている明治3年徳か越戸通の西に山内家歴代を祀る山内神社を建立同10年築屋敷の一部を編入同40年米国人アンニー・ダウド女史創立のミッションスクール高知女学会開校同会は,現在の高知市本宮町の清和女子高校の前身にあたる昭和6年の世帯数161・人口711同45年山内神社境内に山内神社宝物資料館が開館し,山内家16代の遺物の保管と公開展示を始めた同47年住居表示実施により,一部を升形に編入,同時に築屋敷の全域と八軒町・片町・中島町の各一部を編入世帯数・人口は,昭和6年161・711,同45年134・522,同56年1丁目196・347,2丁目164・328

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鷹匠町(近世~近代)
江戸期~昭和42年の町名江戸期は館林城下の武家町城内三の丸の西方,大名小路南裏にあった代官町の南に位置する西は城濠で,濠を隔てて町人町の片町があった,町名の由来は鷹匠の居住したことによるといい,成立年代は,戦国期とも,江戸初期ともいうが不詳(館林町誌稿)享保3年館林領の村々は鷹飼育のため鳥類殺生や川での漁業が禁止される御鷹捉飼場になり,また入る時はぬるく,出る時は熱めにと沸かした風呂を「おたかじょう」と呼んだように,鷹匠は村では恐れられる存在であったが,しかしその頃の鷹匠の屋敷地についての記録はない江戸末期の当町は中士級の居住地となっていた南東に秋元氏の位牌寺の泰安寺があったが,明治初年に廃絶,跡地には三の丸内から秋元社が移された同社はもともと出世稲荷と呼ばれていたが,秋元氏入封後に同氏先祖の霊が合祀された泰安寺跡に移転以後は,秋元氏の家紋木瓜にちなみ瓜内稲荷と改称,明治40年尾曳稲荷神社へ合祀された御神体は3代泰朝が大坂夏の陣で着用した甲冑であった明治7年代官町の一部を編入町名は,明治22年館林町館林,昭和29年からは館林市館林の通称町名として存続してきたが,同42年大手町・城町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鷹匠町(近世~近代)
江戸期~昭和40年の町名江戸期は広島城下の武家屋敷地広島城の西,本川(太田川)右岸,北は空鞘町,南は鍛冶屋町町名は鷹匠の居住にちなむ(旧県史)元和5年の城下絵図には鍛冶屋町に続く竪筋に町間数190間を記し,寛永年間広島城下絵図・天明年間広島城下絵図には御鷹野部屋が見える北隣の空鞘町には延宝年間頃まで藩主鷹野(鷹狩)のための船場があった(知新集)広島藩御覚書帖によれば御用屋敷627坪,歩行以下拝領家が「空鞘辺」に31軒・8,110坪余とある(県史近世資料編)空鞘町には鷹の餌にする雀を取る餌差が住み,明治期に入ってからも長い細竿で雀を刺す風景が見られたという(続々がんす横丁)明治9年募集生徒数60人の小学模範鷹匠町学校が清住寺に開校(新修広島市史)同11年広島区,同22年広島市の町名となる明治15年広瀬村の一部を編入し,一部が空鞘町・鍛冶屋町となる大正6年の戸数1,197・人口3,764,昭和26年の世帯数245・人口968同40年本川町1~3丁目・十日市町1~2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鷹匠町(近世~近代)
江戸期~現在の町名・大字名江戸期は美濃国安八【あんぱち】郡,大垣城下町の1つもとは切石村のうちで,寛永から元禄期に侍町となる城下町西部に位置し,町名は藩主の鷹狩りに従う鷹匠が居住したことに由来家数は寛延期11,享和年間18(新修大垣市史)明治6年からは大垣鷹匠町と称し,同22年からは大垣町の大字,大正7年からは大垣市の町名となる明治8年地坪2,217坪(大垣市史)同33年の戸数6,昭和3年の戸数24・人口108(新修大垣市史)昭和51年土地区画整理事業により西外側【にしとがわ】町・西長町との間に町界変更が行われ,現町域を確定...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鷹匠町(近世~近代)
江戸期~昭和44年の町名・大字名江戸期は彦根の城下町の中の町名80~150石取りの武家屋敷地域で,町名の由来は鷹役・御鷹野御先払役らが居住したことによる曹洞宗の長純寺は,井伊直政が上野箕輪【みのわ】の住持源宝に命じて佐和山城移封後に建立したもので,直政の姉の菩提所明治22年,犬上郡彦根町の大字となり,昭和12年,彦根市鷹匠町となる昭和44年,住居表示の実施により,現行の佐和町・元町【もとまち】の各一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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