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- 竹生村(近世)とは
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竹生村(近世) 江戸期~明治9年の村名水内【みのち】郡のうち土尻川流域の山間部に位置する村名の由来は,日本武尊が部将をこの地に留めたので武部といい,それが竹生になったと伝える天正14年9月19日,小笠原貞慶の家臣渋田見政長が「竹生之本町」の15貫文を有沢善助に宛行った(有沢文書/信史16)松代藩領元和年間竹生・夏和・花尾・上野の4か村に分離(小川村誌)ただし郷帳類では江戸期を通じて竹生村一村として扱われている村高は4か村合計で,「慶長打立帳」1,137石余,「正保書上」1,161石余,「元禄郷帳」1,186石余,「天保郷帳」1,316石余,「旧高旧領」1,322石余大町道(現主要地方道長野大町線)の交通の要地,物資の集散中継地で,江戸末期には市が開かれ,市神も現存する江戸末期に釜蓋に土尻川の掘割開田が行われ,米は飛躍的に増産された弘化4年の善光寺地震での被害は埋没6軒・全壊27軒・半壊13軒,死者13人,田畑の埋没も多かった(むしくら日記/信叢9)天明年間の大飢謹には多数の餓死者を出し,天明4年の騒動に参加した戸数・人口は,天明3年179・602,明治元年120・671(小川村誌)明治4年松代県を経て長野県に所属同6年夏和・花尾・上野の3か村を合併同9年高府村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
竹生村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」