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- 田中村(中世)とは
「田中村(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 田中村(中世) 鎌倉期~戦国期に見える村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中村(中世) 南北朝期~室町期に見える村名越後国蒲原郡加地荘のうち元弘3年12月日の尼浄智申状并越後国々宣に「加地庄荻曽禰条内田中村」と見え,佐々木加地八郎左衛門入道の女子尼浄智が当村の安堵を申請し,建武元年3月18日越後国司新田義貞から安堵を得た(山形大中条文書)その後,「をきそねのてう田中の村」の在家2宇は浄智から藤原清時を経て貞和6年4月3日「めいとく御前」に伝えられた(同前)応永32年6月1日長尾朝景は「加地庄之内田中分」を中条房資に安堵している(同前)荻曽禰条・田中村ともに現在の新発田【しばた】市付近と思われるが,詳細は不明... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中村(中世) 戦国期に見える村名出羽国仙北【せんぼく】山本郡のうち天正19年頃作成の「仙北郡村数日記写」に,太閤蔵入地に指定された手洗【てたらし】郷39か村中に「田中むら」が2か村も登録されている(色部文書)田中は普通名詞的存在で,近世以降の郷内にも同地名は多見し,位置を確定しがたい39か村の記載順から推して,最初の田中村は梅沢村枝郷森越村の中に字地を伝える田中の地点付近であり,末尾の田中村は角館東前郷【かくのだてひがしまえごう】村枝郷田中村か院内村に田中の字地を伝える付近かのいずれかに存在した小村と推定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中村(中世) 南北朝期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中村(中世) 鎌倉期に見える村名白河荘のうち文保2年2月16日の関東下知状に「田中」と見え,白河荘富沢郷以下の諸郷と田中村以下の諸村の地頭職について,結城盛広の提出した紛失状のとおりその領知を認めている(熱海白川文書/県史7)これらの諸郷村は延元元年4月2日の結城宗広譲状案に「一,同国同庄北方,摂津前司入道道栄(結城盛広)跡」と見えることから白河荘北方に属していたと考えられる(白河古事考所収文書/県史7)当村はのち大里村と改称された現在の中通り中部,天栄村大字大里に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中村(中世) 戦国期に見える村名筑後国御原郡のうち天正7年正月18日の屋山三介宛高橋紹運感状(屋山大進所蔵文書/筑後国史)に「三原郡田中村之内十五町」とある高橋氏の居城筑前岩屋城が秋月種実・筑紫広門らの攻撃を受けた時,その防戦に功のあった家臣の屋山三介に紹運が勲功地として与えた所領の1つである「久留米藩旧家由緒書」によれば,江戸初期,田中村は田中吉政が筑後のこの一帯の領主となった際,同名を避けて今村と改められたという現在の大刀洗町今に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中村(中世) 鎌倉期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中村(中世) 南北朝期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中村(中世) 戦国期に見える村名出羽国秋田郡のうち天正19年正月17日豊臣秀吉が秋田実季の当知行を安堵した朱印状写に,「ふかもち村・泉田村・田中村・中のめ村・かまふち村」305石余とある(秋田家文書)田中村はいわば普通名詞で各地に存在するが,上記の並記された村々との関連からして,井川中・下流域に存在した小村と推定される近世秋田藩政下の浜井川村枝郷田中村に継承された村かもしれないが,未詳... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中村(中世) 戦国期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中村(中世) 戦国期に見える村名丹後国与謝【よさ】郡日置のうち「丹後国御檀家帳」に「一 ひをき田中むら 家八十軒斗」とあり,中垣小治郎・同藤五郎・ミつかき与左衛門・よつまちの七郎左衛門・かちや助左衛門・木の下らの名があげられている「与謝郡誌」によれば「日置田中村は今上ケ村(江戸期の日置上村)の小字にて水垣は地名に残」るという... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」