ケータイ辞書JLogosロゴ 繋村(中世)


秋田県>雄和町

 戦国期に見える村名。初見史料は,天正19年正月吉日「秋田郡御蔵入目録写」に,「つなき村」516石余とある(秋田家文書)。前年暮の太閤検地の結果,豊臣秀吉は秋田実季領下の当村を太閤蔵入地に指定,その管轄を実季に委託した。慶長2〜6年,秋田家から豊臣方に報告した「御蔵入御物成納帳」では,「つなき村」の石高は固定し,物成率は慶長2〜5年が12〜13%,慶長6年8%と記載(秋田家文書)。上記の台帳はいずれも,「つなき村」を八郎潟東岸の村々を書き上げた中に記載。しかし湖東通の村々に「つなき村」の痕跡を探ることはできず,また「秋田家文書」所載の村々を石高に即して地図上に落とした時,湖東通に「つなき村」の入り込む余地はない。したがって,写本時の竄入とみて,当村を雄物川流域の繋村に比定した。隣接の女米木【めめき】村・左手子【さでこ】村もこの時に太閤蔵入地に指定されている。白川川下流左岸部の丘陵上にある白川館は,秋田家一門の安藤帯刀・同権三郎の居館址と伝えられている。当時も由利【ゆり】郡北部の諸物資は雄物川舟運利用のため,当地に集められたともいう。秋田一門安藤帯刀が当地に派遣されたのは,秋田領最南端のこの要地を掌握するためであり,この前後に由利郡大正寺【だいしようじ】郷内に属していた当村が秋田郡内の村として記載されたのは,隣接の女米木村や左手子村と同様,秋田氏領下の村となっていたためと推定される。白川館東方の宿【しゆく】は下館【しもだて】ともいう。高尾神社神官小白川氏は,永徳3年に山城国から入部して白川を開村,西ノ沢の朝熊神社は天正年間にまつられたと伝えられる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7260043
最終更新日:2009-03-01




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