ケータイ辞書JLogosロゴ 繋村(近世)


秋田県>雄和町

 江戸期〜明治22年の村名。出羽国由利郡のうち。当初最上氏領。慶長17年6月28日最上方作成の「由利郡検地帳写」に,大正寺郷5か村のうち繋村と記載。元和8年本多正純領を経て,翌9年から幕末まで亀田藩領に属す。「正保国絵図」とその作成基礎台帳の正保3年5月28日「高目録」には,高401石余(うち田398・畑3)と表示。「元禄7郡絵図」とその関連台帳の元禄15年12月6日「郷村高辻帳」には393石余と記載。藩・郡境の村であり,絵図では太平薬師の北から東北方へ午槽館【うまやだて】の中央部を突っ切って境界線を図示。しかしこの一帯の山林「西ノ沢」は,風雪降雨による山崩れ等で地形が変形する地帯であり,秋田藩領河辺【かわべ】郡女米木【めめき】村との間の紛争地となった。絵図は延宝6〜8年の紛争和解後の結果を図示するが,同地をめぐり文化2〜11年にも問題が紛糾している。また雄物川沿いの上田面【うわだもて】には,亀田藩の大正寺御番所が設置された。藩の主要財源となった川舟役運上の徴収地である。のちに番所は東接の新波【あらわ】村に移る。初期の戸数は未詳。天保2年48軒,明治5年47軒・338人(町史)。村鎮守は羽黒権現・太平薬師。ほかに保食社・金輪社・伊氐波社・日枝社などがある。肝煎は工藤家。9代要左衛門は産業振興の功績により苗字帯刀御免となる。明治11年郡区町村編制法施行時は戸長役場亀田町の管轄下に属し,同22年由利郡大正寺【だいしようじ】村の大字となる。当時の村勢は,戸数46・人口338,田67町・畑15町・山林原野246町歩余。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7260044
最終更新日:2009-03-01




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