- JLogos検索辞書>
- 常盤村(近世)とは
「常盤村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
常盤村(近世) 江戸期~明治6年の村名山城国葛野【かどの】郡のうち古代は,葛野郡田邑【たむら】郷(和名抄)に属し,村名は,平安初期承和14年,当地に左大臣源常【ときわ】の山荘が「並岡南」にあったといい(続日本後紀),それが地名の起こりという(山城名勝志・府地誌)なお,常盤御前の墓がある由緒から村名にしたとの伝承もある(沿革取調書)南端を嵯峨街道が通る平地で山川がないため薪炭・用水に不足したが,嵯峨街道が通るため運輸には便利であった(府地誌)仁和寺宮領村高は,「正保村高帳」「元禄郷帳」「享保村名帳」「天保郷帳」とも66石余,「旧高旧領」で85石余,「沿革取調書」では旧時の草高71石余とするなお,常盤は嵯峨野の入口にあたり,幽静閑雅な地として,往古は大宮人の山荘が多く営まれた小一条院敦明親王の山荘を寺に改めた後が西方寺であるといい,「大鏡」の作者に擬せられる藤原為業(寂念)が居た常盤堂は,もと寂念の父藤原為忠(常盤と号す)の山荘であった(山家集)また仁和寺の子院である南院があり,「平家物語」は八条女院が戦乱を避け,仁和寺の常盤殿に忍んだと述べている源光庵の東に常盤御前の墓と称されるものがあるが,常盤には源義経にまつわる伝承が多くある常盤山・常盤杜は古来その風情が愛され,歌枕となっている午塚と呼ばれる古墳の礎石が残っているが,周辺には多くの古墳があった明治元年京都府に所属同5年の戸数15(市町村合併史)同6年常盤谷村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
常盤村(近世) 江戸期~明治8年の村名豊後国国東【くにさき】郡真玉【またま】荘のうち猪群山の南麓の真玉川の右岸に東西に長く位置する慶長5年豊前小倉藩細川領,寛永9年木付藩小笠原領,同16年豊前竜王藩松平領,正保2年幕府領となり,松平木付(のち杵築)藩預地,元禄2年日田代官支配地,正徳2年からは日向延岡藩領,真玉手永に所属元和8年の村高300石,家数31・人数80,牛10・馬4(小倉藩人畜改帳)「正保郷帳」の村高は294石余,うち田217石余・畑77石,「見稲簿」328石余,延享3年318石余(国東郡寅物成割付写),「天保郷帳」329石余,安政元年318石余(延岡藩高辻帳),「旧高旧領」は329石余鎮守は山積神社臨済宗寿福山安養寺には国東塔・石殿などの秀作がある明治4年大分県に所属同8年浜村・庄屋村・恵良村・西畑村と合併して中真玉村となる現在の西国東郡真玉町の通称中真玉のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
常盤村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
常盤村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」