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「馬口労町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
馬口労町(近世~近代)
江戸期~昭和41年の町名馬苦労町・博労町・馬喰町とも書く江戸期は出羽国山本郡(寛文4年まで檜山【ひやま】郡)能代湊【のしろみなと】のうち秋田藩領「享保郡邑記」で...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7260593]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 馬口労町(近世~近代) 江戸期~昭和43年の町名江戸期はもと馬喰町と書き(新編常陸),水戸城下上町の1町明治22年からは水戸市上市のうちで,昭和8年からは水戸市の町名水戸城の北西に位置する町人町町名は馬市が立ち,馬喰が多く居住したことによるという(水戸の町名)「新編常陸」によれば,1丁目から6丁目まであり,東は馬口労町見付,西は常葉村谷中に至るもと郷地であったが,正保元年に町地となった町内に真言宗宝寿院(寛文6年破却),中国明から亡命の僧心越東皐の住んだ祇園寺,臨済宗江林寺などがある祇園寺の向かいに水戸藩の穀留番所がある「水府地理温故録」によれば,町の入口の左右の堀は寛永15年の普請で,かつて当町は下金町舛形出口から真直であったが,一説によると天徳寺僧日坡が4町四方であるべき境内を測ったところ不足があったため藩に願い出て南・東を広げたという同書によると,穀留番所には目付が常住し,当町中程に野菜問屋があって朝は売買でにぎわったとある天保年間の「水戸上下御町丁数調書」では町家は172戸豪商として小泉茂兵衛・大高織衛門が有名大高家は上町の町年寄を勤めた現在の神力稲荷社は大高家の屋敷地のうち林泉のあった所明治33年常陸銀行が創立され,大正13年土浦五十銀行に合併,土浦五十銀行は昭和10年常磐銀行と合併して常陽銀行となり,常陽銀行馬口労町第2支店となった同銀行とは別に明治43年水戸百四銀行馬口労町出張所があったが,大正3年本店が常磐銀行と合併したため,常磐銀行馬口労町支店となり,第2支店を吸収昭和25年の世帯268・人口1,308(水戸の町名)一部が昭和42年栄町2丁目,残部が同43年栄町2丁目・末広町1~2丁目となる第2次大戦の戦災を免れたため,旧当町域の商店街は古い店舗がかなり残る |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 馬口労町(近世~近代) 江戸期~昭和41年の町名馬喰町とも書く明治22年頃一時期米沢を冠称江戸期は米沢城下のうちで町人町の1つ明治22年からは米沢市の町名米沢城下の南部に位置する「米府鹿子」には米沢城下のうち軍役が掛けられる15町の1つ享保10年の町方屋敷数書上帳(県史16)によれば長さ1町34間・道幅6間4尺,家数は本屋33軒・名子2軒・浄徳寺名子1軒,小路1筋町名の由来でもある馬市開始は伊達氏時代からというが,慶安4年に定められた馬市開設日によると,当町は6月3日から6月19日までとなっているしかし後年開催期間は大体1か月位となり,消滅寸前の明治10年頃は半月位になった馬市は当町の道一杯で開かれ,この間は道路に川溝が掘られていない馬市の開催が近づくと,仙台(宮城県)・新庄などから馬喰が馬を引いて集まり,仲買人は越後や遠く関東からも入り込んできた当町から南町にかけては民家の大部分が馬喰たちの宿になり,馬市で1年間の暮しをたてたという(町内めぐり)弘化3年の検地帳では,民家約30軒,うち茶屋2・酒屋1・たばこ屋12・くだもの屋2・飴屋1・穀屋1・屋根葺き1など当町南の突き当たりに市神があった地内の一宮神社は出羽一宮大明神と称された古社で,置賜の総鎮守であった(町内めぐり)が,明治20年の火災により元東馬口労町に移転した明治11年の一覧全図では,反別1町5反余,戸数29・人口152,郷社一宮神社がある昭和41年城南4丁目・本町1丁目・太田町3丁目の各一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」