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- 八田村(中世)とは
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八田村(中世) 南北朝期~戦国期に見える村名丹後国加佐郡田辺郷のうち康永4年3月4日,左兵衛尉某が「田辺郷八田村内八幡宮」に毎月朔幣祭礼料田2反を寄進しており(桂林寺文書/大日料6-9),以後「桂林寺文書」中にたびたび村名が見られる当村内八幡宮の地には桂林寺が存在した同寺は応永8年の創建と伝え,当初は洞林寺と号したという「丹後国田数帳」によれば,田辺郷199町余の知行者は細川讃州となっているが,讃州とは阿波国守護細川成之のこと宝徳3年8月16日付の洞林寺下地目録によれば,彼は養父桂林院殿細川持常3回忌にあたって洞林寺に新田1町余(うち3反は坂根修理亮の寄付)を寄進しているが,洞林寺は持常の父心華院殿満久位牌田,満久の養父宝光院殿義之位牌田等をも有しており,細川家と洞林寺との深い関係がうかがえるまた,同日付で真覚なる者が宝光院座主禅師宛てに,洞林寺免田畠のうちに新たに桂林院殿追善のための寄付地を加える旨の成之の意を伝える奉書を出しているが,真覚とは坂根修理亮であるとされている坂根修理亮は当時,福来・倉谷・伊佐津・境谷・万福寺等に囲まれた標高240mの佐武ケ嶽山頂の佐武ケ嶽城城主で(田辺府志),のち竹野郡島林城に移ったと伝える(丹後旧事記)なお,当村は細川氏の田辺城築城に際し,その城下町の縄張りのうちとなり,住民は由良川左岸に移住,そこに新たに八田村を形成した桂林寺は現在,舞鶴市紺屋に所在し,その付近が八田村の故地である |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
八田村(中世) 戦国期~織豊期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
八田村(中世) 室町期~戦国期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
八田村(中世) 戦国期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
八田村(中世) 戦国期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
八田村(中世) 南北朝末期にみえる村名石見国邇摩【にま】郡仁万【にま】郷(現邇摩郡仁摩【にま】町)のうち明徳元年12月29日の「足利義満安堵御教書」(萩閥121)に「石見国鳥居郷内鳥越村,仁万郷内八田村地頭職」とみえる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」