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東畑村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
東畑村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
東畑村(近世) 江戸期~明治5年の村名播磨国美嚢【みなぎ】郡のうち上吉川東畑村とも称した美嚢【みのう】川支流吉川【よかわ】川流域地名の由来は,市野瀬・毘沙門両村域がかつて上中村で,その上中村の東端にあったことによるという(美嚢郡誌)慶長5年姫路藩領,元和3年明石藩領,延宝7年幕府領,正徳2年からは下野国壬生藩領村高は,「正保郷帳」277石余うち田253石余・畑23石余,「天保郷帳」「旧高旧領」では上吉川東畑村とありともに277石余神社は神明神社・金刀比羅神社寺院は,曹洞宗寿量山清伝寺同寺は,はじめ清伝庵と称し自翁浄雲の開庵で,中興は江戸中期明治2年壬生藩の役所(代官所出張所)が設けられたこともあるが,のち明治18年楠原村の永天寺に併合された明治4年の戸数38・人口174(吉川町誌)明治5年東田村と改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
東畑村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
東畑村(近世) 江戸期~明治5,6年ごろの村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
東畑村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
東畑村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
東畑村(近世) 江戸期~明治8年の村名備前国和気郡のうち八塔寺川上流左岸の山間に位置し,地内を小支流東畑川が流れる村名は,八塔寺村の枝村西畑に対する東方の畑地の意味と伝える宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領村高は,「領分郷村高辻帳」85石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに120石余なお「備陽記」では,高85石余,反別10町6反余,家数30・人数162また和気郡手鑑(和気郡史)では,高85石余・又高35石余,田5町1反余・畑4町6反余,家数38・人数178特産には茶・炭・松脂ろうそくがある明治4年岡山県に所属同8年多麻村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
東畑村(近世) 江戸期の村名出羽国由利【ゆり】郡のうち芋【いも】川下流の東岸に位置する本荘市畑谷【はたや】字東畑谷地区正保3年「高目録」に,岩城但馬守領分東畑村として高184石余(うち田方179石余・畑方5石余)とあるのが,唯一の関連文書なお同文書に西畑【にしはた】村158石余とあり,この時のみ畑谷村を東・西に分割して記したものか村鎮守は不明... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」