ケータイ辞書JLogosロゴ 平沢村(中世)


秋田県>雄和町

 戦国期に見える村名。出羽国豊島郡のうち。初見史料は,天正19年正月吉日「秋田郡御蔵入目録写」に,「平沢村」671石余とある(秋田家文書)。前年の太閤検地の結果,豊臣秀吉は秋田実季領の当村を太閤蔵入地に指定のうえ,実季にその管轄を委ねた。秋田家から豊臣方に報告した慶長2〜6年の「御蔵入御物成納帳」では,平沢村の671石余の石高を固定し,10〜19%の物成率で豊臣方に納入したと記す(同前)。上記史料では、後世の平沢村枝郷水沢村となる地区は白川村または白根村139石余と並記し,椿川村・石田村も記載。そうすると,近世初期の平沢村の村高と比較すれば,上記の石高はあまりにも多い。おそらく雄物川対岸部の黒瀬村の大半を含んでいたためと推定される。慶長5年8月22日実季が一門の湊左馬丞に与えた知行宛行状には,「川南通平沢村之内」200石とあり(藩採集秋田湊家文書),「慶長6年秋田家分限帳」にも,秋田右近の代官所支配の分として「川南通平沢村之内」238石余と記載。川南通とは雄物川左岸部の当地方の通称名であった。慶長6年2月11日実季が秋田金左衛門に「平沢村之内」700石を与えた知行宛行状もある(藩採集秋田湊家文書)。湊左馬丞と秋田右近を同一人物とみても(実際は別人と推定される),慶長6年段階での平沢村石高は900石以上であったことになる。ちなみに統計すると,「正保国絵図」にみる平沢村と黒瀬村の統計本田当高が937石であった。秋田家領下にあったにもかかわらず,「秋田家文書」に黒瀬村が見えないのは,平沢村に含まれていたためと考える。城館は白根館。「戸沢家譜」弘治元年6月10日条に記載の平沢城とは,この城館を指したとみられる。戦国末期に豊島氏が勢力を振った頃は,出羽国豊島郡内の村であったらしい。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7260795
最終更新日:2009-03-01




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