ケータイ辞書JLogosロゴ 水無村(近世)


秋田県>阿仁町

 江戸期〜明治22年の村名。出羽国秋田郡阿仁小猿部【おさるべ】のうち。秋田藩領。村高は「正保国絵図」本田当高66石余,「享保黒印高帳」村高82石余・当高49石余(うち本田34・新田15),「寛政村附帳」当高71石余(うち蔵分71),「天保郷帳」49石余。天文年中に梅村市兵衛が開拓したといわれるが,村高は少なく変化も少ない。戸数は享保年中130軒,寛政年中200軒。枝郷は湯口内【ゆくちない】村・露熊【つゆくま】村で,もとは合わせて1村であったという。当村は銀山町と連続し,鉱山町といっていい。消長は鉱山の経営状態に大きく影響され,「水無村之義古来より,家業者商売又は御物成米宿其外小商駄賃等渡世ニ仕罷有」とあり,鉱山外の運送に従事する者と,鉱山労働者・銅山方を相手とする諸商売の者が多かったようで酒屋が14軒あったという。また,宝暦14年には村民が農民をも含めて銀山町に大きく移動した(銅山木山方以来覚)。鎮守は伊勢・観音・天神の3社。明治初期小淵村ほか4か村と連合。明治22年北秋田郡阿仁銅山村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7261102
最終更新日:2009-03-01




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