ケータイ辞書JLogosロゴ 三木田村(近世)


秋田県>合川町

 江戸期〜明治22年の村名。出羽国秋田郡南比内のうち。秋田藩領。慶長8年の村高129石余と推定。「正保国絵図」「元禄7郡絵図」ともに179石余と図示。この間,天和3年打直検地野帳(成田家文書)では,田畑屋敷合計16町6反余(うち田地9町1反)・分米140石余・家数31軒・人口159人と集計。その後,「享保黒印高帳」で村高141石余・当高132石余(うち本田122・新田10),「寛政村附帳」では当高148石余(すべて蔵分)と認定。「天保郷帳」132石余。戸数は「享保郡邑記」30軒,「秋田風土記」では43軒。村肝煎は三浦(平川)家が寛文年間から幕末まで世襲し,15代弥右衛門は近隣の芹沢・小沢田両村肝煎を兼帯,当村の主要用水源たる関ノ沢堤からの新導水路開削や三木田堰改良工事に功あり,嘉永6年藩から苗字御免となる。肝煎文書「三浦家文書」を現存。当村は親郷不設置の小阿仁地方の1村として,年行事が郷用を勤める。西方の秋田杉の美林地帯は,「孫七沢」の名称下に藩の御直山に指定,当村がその管理担当の麓村となる。元文〜寛延年間は不作続きで14軒の潰家もでたが,藩は寛延2年〜宝暦3年間の孫七沢薪炭用材の伐採を許可。宝暦3年に炭窯8基で3万7,000貫余の木炭を製造し,能代へ販売し64貫を得ている。漆植林も盛んで,宝永6年すでに里漆の成木141本という(町史)。村鎮守は八幡社,ほかに神明社・唐松堂があった。明治8年三木田学校設置。翌9年摩当沢村を併合。同22年北秋田郡下小阿仁村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7261120
最終更新日:2009-03-01




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