ケータイ辞書JLogosロゴ 女米木村(中世)


秋田県>雄和町

 戦国期に見える村名。初見史料は,(天正10年)12月3日下国(安東)愛季から横手城主小野寺氏に宛てた書状(藩採集角間川新田目家文書)。豊島城主豊島氏を安東(のち秋田)氏麾下に従えた際の動向にふれ,「目々木・荒町【あらまち】」の地を「由利内へ相渡」すことはできないと主張。この頃から出羽国豊島郡内に属した当村を,秋田氏領の出羽国秋田郡内に所属させつつあった状況を伝える。太閤検地を経て,翌天正19年に「米々木村」886石余は太閤蔵入地に指定のうえ,秋田実季の管轄下に委託となる。秋田家では886石余の石高を固定した台帳のうえで,豊臣方に蔵納した物成分を毎年報告。現存の慶長2〜6年「御蔵入御物成納帳」によると,当村分の物成率は7〜14%であった(秋田家文書)。この間,秋田家の打直検地により,実質石高はさらに増大して把握。「慶長6年秋田家分限帳」では,「川南通米木村之内」935石余が秋田一門扱いとなって秋田右近の代官所支配に指定されている。この石高は近世初頭の女米木村の村高より多い。当地域一円は太閤蔵入地に指定されており,上記史料に書き上げられた当村周辺の村では,南に繋【つなぎ】村,東に左手子【さでこ】村,北に種沢【たねざわ】村,西に相川(鮎川)村があり,いずれも記載石高は近世初頭の村高に該当する。したがって女米木村の範囲は,近世の戸賀沢【とかざわ】村と女米木村の分と推定できる。上記史料に記載の「とか崎村」は戸賀沢村には比定できない。高尾山から続く峰の東端山頂にこの時期の城館址がある。寺沢館または牛ノ前館といい,城主安藤権三郎の名が近世に語り継がれている。南方の繋【つなぎ】村との境にも通称白川館があり,前者を北城,後者を南城ともいう。「高尾山縁起」では,安東氏領以前は当村は高尾山領であったと主張している。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7261209
最終更新日:2009-03-01




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