ケータイ辞書JLogosロゴ 泉岡村(近世)


山形県>高畠町

 江戸期〜明治22年の村名。置賜郡のうち。はじめ蒲生氏領,慶長3年上杉氏領,同6年米沢藩領,寛文4年幕府領(一時期米沢藩預り地),明和4年高畠【たかはた】藩領,天保元年天童藩領,嘉永元年再び幕府領となり,慶応2年からは再び米沢藩領。村高は,文禄3年の蒲生高目録では352石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに382石余。慶長年間の「邑鑑」では,村高352石余,免4ツ,家数17間(うち役家3)・人数78。宝永3年の三万石新検高寄村付帳では,村高383石余,村格付は下となっており,新検内訳反別は田33町9反余・畑8町5反余(鈴木家文書/県史16)。文久3年の郡中家数人別帳(県史16)では家数40軒・人数253。山沿いの村で水掛りが悪く,屋代川から一ノ堰により通水していたが,寛文5年の旱魃には隣村塩森【しおのもり】村の清水ケ原堰(鈴沼)から分水を受け急場を凌いだ。貞享3年再び旱魃で田植水にも苦慮したため,字明神崎に一ノ堰の取水口を設けて鈴沼の水を取り入れ,以後鈴沼は当村ほか高畠・中里・柏木目・一本柳・塩森の6か村組合管理となり,干害からも免れたが地元塩森と他5か村とは以後も取水量をめぐり,しばしば出入りを生じている。宝暦5年の飢饉の際,相次ぐ凶作による年貢滞納のため,夫食米拝借を願い出,年貢に代用しようとした夫食一件が起こったが認められず,屋代郷諸村のうち18か村の惣代らが江戸に召喚された。当村からも名主十郎左衛門ら3名が出府し江戸麹町山本屋に滞留した。宝暦11年の家数33軒,馬3・牛4(東置賜郡史)。天保年間の飢饉に際し天童藩より飯米17俵を支給された。幕府領復帰後は米沢藩領編入の噂に村内に危惧の念が広まり,文久3年に端を発する屋代郷騒動には村内より清七らが陸奥仙台藩領に越境し奉行片倉小十郎方に出訴した(同前)。神社に熊野神社がある。旧山形県を経て明治9年山形県に所属。同11年の一覧全図によれば,反別48町7反余,戸数40・人口249。明治11年東置賜郡に属し,同22年高畠村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7261771
最終更新日:2009-03-01




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