ケータイ辞書JLogosロゴ 大町村(近世)


山形県>河北町

江戸期〜明治20年の村名村山地方,山形盆地北部の最上【もがみ】川左岸に位置する村山郡のうちはじめ最上氏領,元和8年からは幕府領(享保年間からは尾花沢代官所支配)村内は上・下に分かれ,村高は,元和8年上大町村1,000石余・下大町村1,510石(編年西村山郡史),「天保郷帳」には「古者谷地村」と見え2,941石,天保13年の村山石高帳では上大町村1,727石余・下大町村1,196石余,「旧高旧領」では2,941石余古くは新町村・前小路村・荒町村とともに谷地村とも称した当村には三十市(明和8年大町念仏講帳には五十市とある)と呼ばれる六斎市のほか,団子木市(1月13日),大晦日市(12月30日),また蘇民将来を祀った蘇民堂市(10月2〜10日)のような楮【こうぞ】を中心とした特殊な市もあった幕府領の中で商業の中心地的性格を持ち,「東講商人鑑」には,「五十集荒物店 大町古沢嘉兵衛」のほか,「いつみ屋与市・田美屋五右衛門・田美屋喜右衛門・和田幸右衛門・阿部屋善左衛門・井桁屋弥之助」などが名を連ねており,万小間物・薬種・商人宿・草履表・種物類・亀甲品・銘酒などの店があった8〜9代田宮五右衛門は近世後期以降,谷地名産の草履生産の技術導入と普及の功労者で,近在農村の副業としての草履表生産は以後増加の一途をたどった大町念仏講帳(河北町,柴田家文書)には「寛永七年ヨリノ念仏講」と表紙裏に記されており,本文書には念仏講のあと1年の村の生活記録が書き継がれている当村の中央には舞楽で名高い谷地郷総鎮守八幡宮がある同社には別当円福寺のほか,修験の善住院・智光院・楽人兼社人の林兵庫・太鼓役松浦三右衛門が並んで,六供【ろつく】と呼ばれる門前町を形成し,旧暦8月14日からの7日間の祭礼日は当国第一の市日として大変なにぎわいをみたほかに寺院には,時宗長延寺・浄土宗誓願寺,神社には月山神社がある明治9年7月の地誌編集資料と思われる大町村の書上(今田信一氏探訪文書)によれば,以前は上・下に分かれていたが,明治5年9月15日合併して大町村を称し,枝村として根際・沢畑があったといい,戸数237・人数1,209(うち男626・女583),民業として農桑を業とするもの47・日雇16・魚類商11・大工10・貸座敷7・細物商6・屋根葺5・素麺製5・穀屋4・煙草商4・車屋3・髪結3,医・酒屋・醤油屋・畳刺・鍛冶・絞油・旅籠屋各2,その他が記されている旧山形県を経て明治9年山形県に所属明治11年の一覧全図では,反別221町7反余,戸数・人口は237・1,222,大町学校がある明治11年西村山郡に属し,同20年荒町村ほか5か村と合併して谷地村となり,大町は通称地名として残る
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7262131
最終更新日:2009-03-01




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