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- 蟹沢村(近世)とは
「蟹沢村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 蟹沢村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 蟹沢村(近世) 江戸期~明治8年の村名会津地方東部,猪苗代湖北岸に位置する耶麻【やま】郡のうち古くは更級荘に属したという会津藩領川西組に属す村高は,文禄3年の蒲生高目録では猪苗代郡に属し130石余,文化15年の村日記(県史10下)および「天保郷帳」「旧高旧領」ともに241石余化政期の家数11軒(新編会津)二本松裏街道が通る縄文中期・後期の遺跡が湖水の中にも及んでいる村内の虚空蔵堂には,13歳詣りの参詣者が参った境内の観音堂は猪苗代三十三観音第31番の札所で,如意輪観音がまつられている古跡の満願寺は恵日寺の末寺という(同前)肝煎は古くは藤原家,のち矢野森家鎮守は八幡神社明治元年10月の村役人排斥の一揆で休役となった旧肝煎は,12月に帰役願を民政役所へ提出した(小林家文書)明治8年戸ノ口村ほか2か村と合併して翁沢村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 蟹沢村(近世) 江戸期~明治12年の村名播磨国宍粟【しそう】郡のうち江戸期は蟹ケ沢とも書いた揖保川の支流大谷川の上流域安富町との境安志峠(須賀峠)の鞍部近くに位置するはじめ姫路藩領,元和元年山崎藩領,延宝7年幕府領,元禄10年からは三日月藩領村高は,「正保郷帳」127石余うち田78石余・畑49石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに133石余寛文年間の下村氏手控によれば田8町余・畑9町余,米成57石余・大豆成30石余(うち麦成6石余),免5ツ8分2厘,小物成銀37匁余,桑役真綿250匁余,家数9・人数61寛保年間須加村とともに今宿村など8か村を相手どり大谷山入会争論を起こした当村内には大坂南谷町越前屋理兵衛採鉱の銅山があった明治12年須賀沢村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 蟹沢村(近世) 江戸期の村名遠江【とおとうみ】国豊田郡のうち天竜川下流右岸に位置する地名はサワガニの生息する川筋の地にあたることに由来するという正保年間までに柴本村から分村し,村号はないという(風土記伝)延宝元年本沢村百姓との間で小天竜川の河原に切り開いた新田畑をめぐって争いが起きた(本沢村文書)延宝6年頃の青山御領絵図には当地の地名が見えるが,「元禄高帳」「天保郷帳」には記載がない幕末に柴本村に合併したと思われる現在浜北市大字於呂の通称地名として残る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 蟹沢村(近世) 江戸期~明治9年の村名陸奥国鹿角【かづの】郡毛馬内【けまない】通のうち南部藩領毛馬内の町内から北東約500mに位置する「邦内郷村志」によれば,蔵入高62石余・給分采地153石,馬40,戸数13稲荷社をまつり別当と認められる修験不動院が存在する地租改正を機に,明治9年岡田村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」