ケータイ辞書JLogosロゴ 金沢町村(近世)


山形県>新庄市

 江戸期〜明治22年の村名。最上郡のうち。はじめ最上氏領,元和8年からは新庄藩領。北本町郷に属す。村高は「新田本新庄領村鑑」では元和8年2,165石余・元禄13年2,715石余,「天保郷帳」では2,254石余,ほかに当村の枝郷として関屋村260石余・山屋村609石余,「旧高旧領」では3,301石余うち寺社領65石余。慶長17年と推定される正月11日付の清水康氏宛行状(安食文書/戸沢氏以前史料集)によれば「金沢之内上田千苅」が安食平右衛門に宛行われている。安食氏は,現在の新庄市東部山手に安食楯を構えていた土豪で,差出人の清水康氏は清水氏の一族であろう。清水氏は慶長19年に最上氏によって滅ぼされ,当地は最上氏の蔵入地となり,日野将監が代官として支配した。元和5年9月吉日付の某氏連印宛行状(安食文書/戸沢氏以前史料集)では「金沢ノ内」1,500苅が安食平右衛門に宛行われ,また同日付の同様な文書では「かね沢」の内合計2,050苅が安食伊賀に宛行われている。当村は城下町の東はずれ,羽州街道沿いに位置するため,伝馬役負担が大きく諸役が免除されていた(新田本新庄領村鑑)。「吉村本新庄領村鑑」によれば,金沢町と見え,反別は明和3年・文化元年ともに229町余うち田方179町,年貢高は明和3年3,957俵余,うち田方3,724俵余,文化元年3,959俵余,うち山屋865俵・関屋377俵・梨子木302俵,家数・人数は寛政6年180軒・706(うち枝郷66軒・349),文化9年166軒・678,文化12年の馬54,枝郷に山屋・関屋・紙漉町・梨子木・閑居村がある。鎮守八幡宮は村の東はずれにあり,境内に虚空蔵堂・地蔵堂がある。枝郷山屋に不動堂,寛永年間に創建されたという薬師堂,枝郷梨子木に稲荷,枝郷関屋に連臣明神・濫番権現がある。寺院は,戸沢氏菩提所の1つである天台宗高岳山松巌寺・曹洞宗長泉寺・同金沢山円応寺・浄土宗接引寺がある。接引寺の境内には,宝暦5年の飢饉の際の餓死者を弔って建てたというまどかの地蔵がある。飢饉の惨状をしのび,春秋の彼岸にはこの地蔵にぼた餅を食べさせる風習がある。ほかに葉山派修験良学院・同善明院・同宝鏡院・羽黒派修験明性院がある。明治初期,新庄を冠称し新庄金沢町村となる。旧山形県を経て明治9年山形県に所属。明治11年の一覧全図では,反別は444町2反余,戸数・人口は324・1,365,金沢・山屋学校がある。明治11年最上郡に属す。明治13年金沢学校が日新学校と称する。明治22年冠称をとり,新庄町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7262380
最終更新日:2009-03-01




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