ケータイ辞書JLogosロゴ 金山宿(近世)


山形県>金山町

 江戸期〜明治9年の宿名。最上郡のうち。はじめ最上氏領,元和8年からは新庄藩領。金山十日町・金山七日町・金山内町(内古城前)の3か村からなり,はじめ各々独立し庄屋が3人いたが,文政年間頃には1人となった(増訂最上郡史)。当地は戦国末期〜近世初期にかけて最上義光の家臣で金山城主の丹与惣左衛門が支配していた。最上義光分限帳(戸沢氏以前史料集)に「金山関守 高千石 丹ノ与惣左衛門」とみえる。関ケ原の合戦ののち金山城は鮭延秀綱の支配下におかれたものと思われ,鮭延越前守侍分限帳(同前)に「一,知行高千石 金山館主 薗部【そのべ】彦右衛門,一,高六百五十石 川口三右衛門」とみえる。「梅津政景日記」の慶長19年正月24日条には「金山之城代川田三右衛門より去八日之日付にて,為年頭と,飛脚御座候由」と見える。また金山城には鮭延秀綱が居城していたが,元和8年最上氏改易の際に伊達氏によって取り壊された。金山は,丹与惣左衛門在城当時から城下町として発達し,町内には「古城前」の地名が残っている。新庄藩制下では16か村を数える金山郷の在郷町として中心的な役割を果たした。また当地は江戸期を通じ羽州街道の宿駅として交通上の要衝であった。宿駅の中心は七日町・十日町・三日町で,参勤交代が制度化された寛永年間頃にその発展をみた。元禄6年の金山町及位【のぞき】村両駅所御定書(金山町朴山,松田家文書)には「金山町七日町,右者伝馬繁く相勤候ニ付,願之上,御薪・糠・藁差引永代御免許」とあり,十日町についても同様の記載がある。これは伝馬番6人,火回番2人,辻番2人ずつを宿駅人夫として常置し,月に人足600人を負担する代償であった。もともと金山・及位両宿は役馬を負担していたが,天和3年の凶作以降それが不可能となったため,惣村の高割で出金し,役馬24匹を調達して金山宿に預けることになっていた。その後役馬も飛脚馬だけになり,伝馬は惣村に割り付けられたため,毎日50〜60人の伝馬人夫手伝が金山宿に集められ,年間3,000駄の荷物輸送にあたったといわれる。そこで文政5年金山宿50匹・及位宿25匹とし,惣村から金山に毎年人夫300人・馬500匹を出すこと,役馬備金を村々が醵出することなどを定めている。「雪のふる道」(生活史料10)に「けさは雪はれて日かげかつかつさしくるに,いそぎ金山の駅までと出たつ。……かくて金山より及位(現真室川町大字及位)に至らんとするに,ふゞきのなごり行かふ人まれにて,馬屋ぢわけがたきよしをいふ」と見える。当地は宿場町という立地をもとに次第に有力な商人が成長し,「東講商人鑑」には岸屋甚蔵・岸屋三郎兵衛・江戸屋与左衛門の名が見える。風土は杉の生育に適し村々の百姓が藩の許可を得て「御判紙林」の植立てを盛んに行った。これらの山林は富商や豪農に集積され,その後の管理経営と相まって今日みるような全国的に有名な美林となった。天明〜寛政年間頃多数の門弟を育てた俳人西田羽長坊(享保9年〜享和2年)は,富商西田家の出身で蕉門美濃派の流れをくむ(読史備要俳諧系図・三浦若海編:俳諧人物便覧)。寺院は,慶長7年に当時金山城主であった丹与三左衛門の子息が開いたという曹洞宗宝円寺があり,同寺の山門は,金山城の裏門を移したものと伝える(山形県寺院大観)。そのほかに浄土真宗円称寺,当山派修験の大宝院・万宝院。神社は,鎮守八幡神社,旧金山城址に神明神社・不動堂がある。戊辰戦争では奥羽列藩同盟軍の仙台藩兵と秋田方面から南下した新政府軍との激戦地となったが戦火による民家の焼失はなかった(常葉金太郎:新庄藩戊辰戦史)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7262388
最終更新日:2009-03-01




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