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- 切畑村(近世)とは
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切畑村(近世) 江戸期の村名出羽国雄勝【おがち】郡のうち秋田藩領切幡・桐畠・切畠・箭旗とも書く(雪の出羽路など)西馬音内【にしもない】川支流の作内【さくない】川上流の山間部に位置する村の成立も村高も不明で,「正保国絵図」では石塚村の枝郷,「元禄7郡絵図」では松岡村の枝郷として,それぞれ郷形を図示「享保郡邑記」に真木ノ沢【まぎのさわ】・八幡林【はちまんばやし】・嘉長畑【かちようはた】・上保戸岡【かみほどおか】・水沢・蓮花平【れんげだい】の6か村を枝郷とする寄郷として,戸数76軒(うち枝郷分46)の村と記載「雪の出羽路」でもさらに下保戸岡・畑村・菖蒲台【しようぶたい】・笹箇台【ささがたい】の枝郷4か村を含む「切畑郷」で肝煎佐々木作左衛門と記し,そのうち上・下両保戸岡は廃村,水沢村は延宝7年成立の新田村と伝えるしかし,藩の黒印高帳には当村は見られず,「秋田風土記」では一括して松岡村の枝郷切畠と記載八幡林村に中世の城館址があり,付近にまつられた八幡社が当村鎮守とみられるまた天台宗から曹洞宗寺院となったという祝融山霊仙院(湯沢町清涼寺末寺)がある修験重覚院・十楽院のほか,枝郷ごとに神明社・稲荷社などをまつる嘉長畑の観音堂は大同2年開創ともいい,坂上田村麻呂伝説を伝える(雪の出羽路)明治初年には切畑・間木沢・水沢・八幡林・蓮華台【れんげだい】が松岡村の枝郷として見え,嘉長畑も小字名として残る(郡村誌) |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
切畑村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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切畑村(近世) 江戸期の村名... |
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切畑村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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切畑村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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切畑村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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切畑村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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切畑村(近世) 江戸期~明治7年の村名摂津国有馬郡のうち有馬川支流有野川流域の谷あいに位置する地名の由来は,地形が水田耕作に適さないので,畑作と桐の木を植え加工していたところから桐畑・切畑と称するようになったというまた一説に有野川筋で最も早く開墾されたところより村名に転用したともいう(有野村誌)「元禄郷帳」が初見で,元禄年間以前に下司村から分村して成立したものと思われ,以後江戸期は下司を冠称武蔵国岡部藩(明治元年から三河国半原藩)領村高は,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに171石余天保8年の家数19・人数122(同前)神社は五社八幡神社明治7年有野村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」