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- 倉沢村(近世)とは
「倉沢村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 倉沢村(近世) 江戸期~明治8年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 倉沢村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 倉沢村(近世) 江戸期~明治10年の村名上総国周淮【すす】郡のうち小糸川上流域に位置する村名は,当村開発の恩人里見倉沢の名にちなむというはじめ幕府領,寛永17年から旗本曽根氏領,のち「上総国村高帳」「旧高旧領」でも変わらず村高は,文禄3年「石高覚帳」47石,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに47石余「上総国村高帳」では家数24鹿野山宿の助郷村宝暦年間伝兵衛が新田を開発したが,洪水により中断,文化年間に再開されたこのとき悪水・土砂が入会地に流入し,刈敷肥料が不足し紛争が起こった(小泉家文書)明治6年千葉県に所属神社は里見倉沢神社・八幡社明治10年豊英【とよふさ】村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 倉沢村(近世) 江戸期~明治9年の村名陸奥国鹿角【かづの】郡毛馬内【けまない】通のうち南部藩領花輪から大湯に通ずる県道に沿い,一本木の北東に隣接し,宮野平【みやのたい】の南西に接する「邦内郷村志」によれば,蔵入高10石余・給分采地10石余の小村で,民戸も8軒にすぎないが,馬は2匹平均の16匹である明治9年地租改正を機に大湯村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」