ケータイ辞書JLogosロゴ 下土口村(近世)


山形県>三川町

江戸期〜明治9年の村名はじめ櫛引【くしびき】郡,寛文4年からは田川郡のうち庄内藩領中川通に属す村高は,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに639石余寛永6年石原弥五右衛門が猪子【いのこ】・長沼・土口村の3か所に100石の新田開発を許され,土口村分7石余を開発し,この分を地方知行として支給された(大泉紀年)下土口村の成立はこの時で,以後横山・押切新田・横内・横川および長沼・家居【かずえ】新田村からの移住が行われた各年代検地帳での反別は,寛文6年2町5反余,貞享2年67町余,慶応3年69町6反余幕末期の「弐郡詳記」では,639石余,免2ツ9分,家数41軒農業用水は中川堰の分水堰を利用用水の末流地帯で水不足に苦しみ,天保15年上流菱沼村の捨水の分水を願い新規堰立に成功これを記念し,弘化3年石碑を上土口村とともに平野神社に建立また出水の際には,上流村々の水門が開けられることから田畑が冠水して難渋したこのことで天保6年上流の小尺【しようしやく】村との間に争いが起きている馬草・肥草の草取場が少なく,田の畔草への依存度が大きかったため,その刈り取りをめぐって明和5年押切新田村,天明6年押切新田村対馬,文政8年押切新田村三本木,嘉永6年押切新田村対馬との間で畔草一件が起きている新田地帯であるため縄延びがあり,さらに年貢が下免であることから地主の土地集積が進み,寛政9年には押切新田村三本木の阿部家の小作人が20戸に及び,258俵余の俵田渡しを出していた(三川町,阿部家文書)鎮守は寛文4年創建の平野神社ほかに皇太神社・稲荷神社がある鶴岡県を経て明治9年山形県に所属同9年地租改正の過程で上土口村との合併願いが出され,同年上土口村と合併し土口村となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7263171
最終更新日:2009-03-01




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