- JLogos検索辞書>
- 下宮田村(近世)とは
「下宮田村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
下宮田村(近世) 江戸期~明治9年の村名耳納【みのう】山地東部の北方,筑後川中流左岸の微高地上に位置する中世には宮田と見える地内に塚堂石墳がある戦国末期には豊後大友氏の直轄領という(星野伝記)はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領石井組に属する村高は,「元禄国絵図」201石余,「在方諸覚書」の古高370石,「天保郷帳」204石余,「旧高旧領」350石余宝暦年間頃の役高は489石,庄屋文平は小江村庄屋も兼任(在方諸覚書)文化4年の耕地は田29町余・畑3町余(農政農民史料集)吉井町から古川船渡へ通ずる道路沿いの村である享保5年6月の大山汐・大洪水では大きな被害を蒙り,3~5割の損毛となった(石原家記)産土神を祀る宝満宮のほかに天神・阿弥陀堂がある(寛延記)明治9年宮田村の一部となる現在の吉井町宮田の一部にあたる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下宮田村(近世) 江戸期~明治10年の村名出羽国仙北【せんぼく】郡のうち秋田藩領院内川と小白川川の合流地点に位置し,東隣の鎌川【かまのがわ】村によって開墾(享保郡邑記),18世紀初期に成立「享保黒印高帳」で村高127石余・当高84石余(うち本田並50・新田34),「寛政村附帳」で当高88石余(うち蔵分65・給分23)とある親郷は梅沢村「元治元年奥北浦村々取調帳」(小貫家文書)では,当高97石余・1軒・7人・馬なしとあるかなり出作があったようである明治10年国館【くにだて】・荒川尻村と合併,神代【じんだい】村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下宮田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下宮田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」