月楯村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。最上郡のうち。はじめ最上氏領,元和8年からは新庄藩領。下小国【おぐに】郷に属す。村高は「新田本新庄領村鑑」では元和8年518石余・元禄13年733石余,「天保郷帳」833石余,「旧高旧領」1,116石余。慶長16年霜月25日付の小国日向守光忠知行状(山口文書/山形市史史料編1)に「四百かり つきたて おし二郎兵衛分」と記され,当地の一部が「とミさハ」などとともに「さ藤半七」に宛行われていることがわかる。家数・人数は,寛政6年48軒・255,文化9年42軒・202,文化12年の馬72,枝郷はカニノ又村。広い牧野を有し,馬産が盛んに行われた。庄屋菅家は郷内の駒頭を勤めた。「新田本新庄領村鑑」に「枝郷枝の口より満沢村一刎越に出る道有り,此道山坂有りて難所なり」とある。神社は,神明社・熊野三所権現・山神三所権現など。ほかに妙見堂・弁天堂・薬師堂がある。弁天堂の木造小仏像群は,天明年間に当村の羽黒派修験南泉院僧都良巡が千体仏を作る祈願を立てて納めたものと伝えられる。寺院は,曹洞宗徳応寺・葉山派修験泉蔵院。旧山形県を経て明治9年山形県に所属。同11年の一覧全図では,反別71町1反余,戸数43・人口253。明治11年最上郡に属し,同22年西小国村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7263736
最終更新日:2009-03-01