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「出羽国」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 出羽国府(古代) 奈良期の国府名出羽国府の設置に関しては不明であるが,和銅5年9月23日の太政官議奏によって,出羽国が新立された際(続日本紀),出羽国府も設置されたものと思われるすでに和銅元年,蝦夷開発の前線基地として出羽柵が設けられた出羽国府は,おそらく,この出羽柵のうちに置かれたと考えられるはじめは出羽郡のみを管轄する小規模なものであったが,和銅5年になって陸奥国の最上・置賜【おきたま】の2郡が出羽国に移管され,同時に,田川・飽海【あくみ】郡も設置され,出羽国府はほぼ今の山形県の範囲の土地・人民を支配する地方行政機関となった出羽国府の所在地については,三川町大字助川説・鶴岡市大字大山太平山麓説・酒田市城輪柵【きのわのさく】説・藤島町大字平形説などがある渟足【ぬたり】・磐舟柵・秋田城(現秋田県)がすべて河北にあることから,出羽国府がおかれた出羽柵は,赤川の北岸に置かれたとすべきである酒田市城輪柵説も有力ではあるが,当時,庄内地方で最も開発の進んでいたのは出羽郡であったことより推して,藤島町大字平形説が妥当であろう付近には,式内社である伊氐波【いでは】神社・遠賀【おが】神社・由豆佐売【ゆずさめ】神社の3社が鎮座している和銅7年・霊亀2年・養老元年・同3年と尾張・上野・信濃・越後などの各国から数百戸が出羽柵戸として出羽に送られてきた出羽国開発が急速に進んでいったことを示す史料である(続日本紀)天平5年12月,出羽柵は秋田高清水岡(現秋田県秋田市)に進められた(同前)現在の山形県から秋田県に及ぶ広大な地域が中央政府の地方支配下に入っていったことを示す画期的出来事であるしかしこの時,ただちに出羽国府が秋田高清水の出羽柵に移されたのではなく,760年代のはじめに,出羽国府も同所に移ったものと思われるその後宝亀年間の蝦夷の反乱によって,出羽国府の地方支配は動揺した宝亀6年10月13日出羽国司は「蝦夷余燼,猶未平殄,三年之間,請鎮兵九百九十六人,且鎮要害,且遷国府」という請願を中央政府に行っている当時の蝦夷反乱によって出羽国府は後退を余儀なくされたのである後退の先は安全な庄内地方であったと思われる宝亀11年8月23日条の「続日本紀」に「秋田難保,河辺易治者,当時之議,依治河辺」とある秋田より後退した国府は「河辺」に置かれた移ったのは宝亀年間か延暦年間と推定される「河辺」の位置については,雄物【おもの】川西岸の河辺郡(現秋田県河辺町付近)とする説,秋田高清水岡(現秋田県秋田市)とする説があったが,最上川河口付近とする説が有力である延暦23年11月,出羽国司は,北隅に孤立し無意味になった秋田城を停廃し,河辺国府を確保したいと奏上し,これを許されている(日本後紀)かくして国司の中から次官の1人を専当の秋田城司とすることになった「秋田城介」の制度の始まりであるその後仁和3年出羽国守坂上茂樹の奏状には「国府在出羽郡井口地」とあり(三代実録),延暦年間,坂上田村麻呂の論奏によってこの国府が建てられた旨を述べているこの井口の国府と河辺府との関係は不明であるが,同所もしくはその付近にあったものかと思われるその所在地についても,酒田市大字広野新田説・最上川河辺説・酒田市大字吉田説・酒田市城輪柵説などがある仁和3年の奏状で出羽国守坂上茂樹は,去る嘉祥3年の大地震で形勢変改して窪泥となり,海水が間近に国府より6里の所までせまったこと,大川が崩壊して国府の溝池から1町あまりに近づいたことを述べ,尽力にもかかわらず国府はまもなく埋没してしまうので,「最上郡大山郷保宝士野」に遷建したい旨を願い出たこれに対し,中央政府は最上郡は国の南辺で,山が多く,最上川の水運は冬には凍結して往来が難しく,さらに秋田・雄勝城からもあまりにも離れているとして国守の願をしりぞけた新国府については,旧府の近くの高敞の地を選ぶよう命じている最上郡大山郷保宝士野に関しては,現在の最上郡舟形町付近とする説と山形市の付近とする説があるが,後者の方が有力と思われる市周辺には,古代集落跡・条里遺構・古墳などが多数発見されており,政治・経済的にみて出羽国の中心地たるにふさわしいこと,「秋田・雄勝城からあまりにも離れている」とする記述は山形市説に有利であること,などがその理由であるかくして井口国府の近くに「高敞国府」が建造されたが,その場所に関しては,酒田城説・酒田市新田目説・酒田市城輪柵説・八幡町八森遺跡説などがあるこのうち,八幡町八森遺跡からは,9世紀後半~12世紀末にかけての国衙級の規模を持つ遺構と多数の遺物が見つかっており,「高敞国府」を八幡町大字市条字八森に比定する見解が有力のようであるただ平安末期には出羽国留守所が酒田市大字本楯字新田目にあったとする説も存在するまた江戸初期の刊本「和名抄」(元和古活字那波道円本)には,国府は平鹿郡にあり,行程上り47日下り24日であった旨が記されているが,信憑性は薄い平安期における荘園公領体制の成立に伴い,12世紀中葉には古代地方行政機関としての国府の役割は終った |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 出羽国 天正18年の太閤検地には,南の庄内や北の山北【せんぽく】で反対の一揆が起こったが,結局出羽も豊臣秀吉の支配下に完全に入った... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 出羽国 和銅元年越後国の1郡として出羽【いでは】郡が設置された... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 出羽国 平泉(現岩手県平泉町)の奥州藤原氏は,荘園支配の関与やいわゆる郎従支配を通して,現地の豪族に対応しつつ出羽にも勢力を及ぼしていたが,文治5年,源頼朝の奥州合戦によって壊滅した... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 出羽国 天正18年豊臣秀吉の奥羽仕置により,伊達政宗は伊達・信夫(現福島県)・置賜3郡などの所領を没収された... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 出羽国 大化前代この地は国造は置かれなかった... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 出羽国【でわのくに】 (古代)旧国名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 出羽国(古代) 旧国名東山道の1つ明治初年以前は現在の山形・秋田の両県にわたる地域和銅5年に越後国の出羽郡に陸奥国置賜【おきたま】最上2郡を加えて出羽国が立国されたその後,奈良期には天平5年雄勝郡の設置があり,天平宝宇3年には雄勝・平賀2郡の分割整備が行われたさらに平安初期には秋田・河辺・山本の各郡が置かれ,出羽郡は田川・出羽・飽海の3郡に,最上郡は最上・村山の2郡に分かれたこうして,10世紀には11郡からなる出羽国が成立する出羽国には津軽も含まれていたと思われる9世紀末から10世紀にかけて,奥羽の北部では蝦夷・俘囚の叛乱が記録されている貞観17年11月の渡島の荒狄【あらえびす】の叛乱,元慶2年の元慶の乱といわれる出羽の蝦夷の大規模な叛乱,天慶2年の出羽の俘囚の大規模な叛乱などが主なもので,いずれも出羽国の蝦夷あるいは俘囚の叛乱にかかわるものである元慶の乱では,津軽蝦夷の動向が1つの焦点となっている津軽は律令政府から蝦夷村として把握され,この時期には津軽地方およびその北の渡島(北海道)は出羽国の管轄下にある蝦夷村であったただし,津軽が出羽国に含まれていたわけではなく,政府が津軽を出羽国府や秋田城・雄勝城などの管轄下に含めていたことにすぎないその後,12世紀にはいると平泉藤原氏の北奥支配が確立し,津軽は陸奥国の管轄下に入り,平賀・鼻和・田舎・山辺の4郡と郡に相当する西浜・外浜が設置された... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 出羽国【でわのくに】 旧国名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 出羽国【でわのくに】 旧国名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 出羽国 平泉藤原氏の勢威が荘園支配に関与したり,いわゆる郎従支配によって現地豪族に対応したりしながら出羽にも及んでいた12世紀に,源頼朝の奥羽攻略が行われ,出羽には南に大江・安達・大泉など,北には小野寺・松葉・橘・浅利・成田などの諸氏が地頭に補任されて入部した... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」