- JLogos検索辞書>
- 西町(近世)とは
「西町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
![]() | 西町(近世) 江戸期の日光門前町西部の総称入町・日光西町ともいう江戸期日光門前町は大谷【だいや】川沿いに東西に延び,神橋を境に上流左岸の当町と下流右岸の東町とに大別される当町は元和3年東照宮鎮座以後町割が進み,社家・楽人など日光山の奉仕者,日光目代やその下僚の屋敷が置かれ,寛永年間には山内の寺院や民家も移転してきて街並みが形成された(旧記・日光山志)江戸期には本町(上・中・下),大工町(上・中・下),板挽町,袋町,四軒町,馬町,原町,蓮華石町などの各町があった日光神領はじめ日光目代山口氏,寛政年間より日光奉行の管轄高請はされず,その代わりに日光山の祭祀や日常生活に関係する諸負担は,神領内の村方が納物の形で納入したのに対し,町方は人足夫役の形で課せられた天保14年の西町の夫役は,主なものとして,御霊屋大掃除栗石返人足(年2回),御供水屋掃除人足(年2回),御霊屋御倉御用人足58人,新宮太々神事御用人足20人,慈眼堂風干御用人足20人,安養院坂前掃除人足,御霊屋主人掃除人足(毎日)などがあった(日光市史)安永7年には,日光山の修復手伝普請に参加して渡世の支えにしていた日光の各町の町人が,その縮小による困窮に対して騒動を起こした(県史近世6)慶応年間「日光山森羅録」によれば,西町分の家数271・人数1,236明治初年には馬町が四軒町の一部となり,同7年には蓮華石町(村)が花石町と改称同年日光町の成立により,東西両町はその一部となるが,以後現在に至るまで日光の市街地西部を西町と総称している |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西町(近世) 江戸期~明治22年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西町(近世) 江戸期~明治7年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西町(近世) 江戸期~明治10年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西町(近世) 江戸期~明治22年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西町(近世) 江戸期~明治22年の町名結城城下22か町のうち町の中央西部,御免地外構堀,俗称御朱印堀に外接する小山街道の両側に位置し,地子免除の特権はなかった成立の時期は文禄年間~慶長年間結城秀康の新城下町建設以後とされ,小山街道・本町との接点に木戸があった元禄4年の結城町町中間数・家数・屋敷町歩書上帳による間数は1町50間(赤荻和弥家文書/結城市史)宝永5年の結城町明細帳控によれば,家数35軒,うち18軒寺門前・17軒鉦打(田宮佐兵衛家文書/結城市史)宝暦5年の町村惣商人仲間議定連書帳では,酒や2・とうふや1・あめ売2・こま物や2・あら物や1・古金や1のほか,4名の小商人がいた(本多新次郎家文書/結城市史)寺院には朱印高50石の浄土宗弘経寺があり,関東十八檀林の1つとして学問寺の役割を果たした明治22年結城町結城の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西町(近世) 江戸期の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西町(近世) 江戸期の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西町(近世) 江戸期の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西町(近世) 江戸期の府内城下の町名町組府内町を構成する30町のうちの1つ府内庄屋支配に属す府内城の西南にあり,北は室町,南は西上市町・中上市町,東は京町,西は清忠寺町に接する貞享元年の「万覚」によれば,当町の東頬28.5間・西頬30間・道幅3間,東西の入15間,室町堺の道幅2間明治8年まで府内町,同22年まで大分町に所属同年以降大分町大字大分の字名・通称地名として存続昭和20年7月16日夜および8月10日の米軍空襲により焼土となる同38年6月1日の新住居表示直前には字名・通称地名とも使用されなくなっており,本町に含まれている表示後大分市中央町2丁目の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西町(近世) 江戸期~明治22年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」