ケータイ辞書JLogosロゴ 長谷堂村(近世)


山形県>山形市

 江戸期〜明治22年の村名。村山郡のうち。はじめ最上氏領,元和8年山形藩領,弘化2年からは上野館林藩領。村高は,寛永13年の領地目録(家世実紀)では5,466石余,村山石高帳によれば天保13年5,550石余,「天保郷帳」には「古者長谷堂村・菅沢村弐ケ村」と見え変わらず。「旧高旧領」4,703石余。はじめ志村光安が拠った長谷堂城は慶長6年に坂光秀が1万3,000石で城主となり,知行地は長谷堂・二位田【にいだ】・前明石【まえあかし】・狸森【むじなもり】・小白府【おじらふ】・津金沢・片谷地【かたやち】の各村であった。長谷堂城は元和8年の最上氏改易により廃城。柏倉村方面から上山【かみのやま】方面に通じる村内の上山通りには口留番所が置かれていた。また,従来船町【ふなまち】河岸や山野辺村(現山辺町)方面から羽州街道の松原宿を通って上山や置賜方面に運ばれた塩などの商荷物が,江戸中期以降当地を通って運ばれるようになった。そのため商荷物の中継権をめぐって幕末まで松原村とたびたび相論を起こした。元禄13年の村明細帳(県史13)によれば,村高4,339石余,反別231町1反余,小物成は山守礼銭・青苧【あおそ】役・漆木役など,高懸り物は大豆・荏油・糠・藁・柿渋・蕨などが課されていた。なお枝郷久保手は上山藩領に属し,上山城下と当村を結ぶ脇街道の中継村落として重視され,上山藩領には地蔵がられていた。西方の赤はげ峠を経て山形盆地に至り,三山行者の往来でもにぎわった。寺院は,嘉吉年間の創建で永正12年曹洞宗に改宗した大森山清源寺があり,慶長年間頃は長谷堂城主の旦那寺で,江戸期には寺領3石8斗を有した。文治年間安達盛長の開基と伝えられる浄土真宗(大谷派)本沢山西養寺は,寺領2石6斗余を有し,ほかに当山派修験長谷山長光院がある。神社は,城山に最上三十三観音の第11番札所長谷観音があり,ほかに神明神社・八幡神社・滝山神社などがある。旧山形県を経て明治9年山形県に所属。同11年の一覧全図では,反別303町8反余,戸数277・人口1,657。明治11年南村山郡に属し,同22年本沢村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7264373
最終更新日:2009-03-01




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