ケータイ辞書JLogosロゴ 古口村(近世)


山形県>戸沢村

 江戸期〜明治8年の村名。最上郡のうち。はじめ最上氏領,元和8年からは新庄藩領。古口郷に属す。村高は「新田本新庄領村鑑」では元和8年501石余・元禄13年698石余,「天保郷帳」では843石余で,ほかに当村の枝郷として柏沢村32石余,「旧高旧領」では1,004石余。慶長16年正月10日付,伊藤半兵衛宛の伝清水光氏宛行状(伊藤文書/戸沢氏以前史料集)には「血針之儀も,長沢・猿羽根・古口・黒岡(蔵岡)四ケ所義,出置候者也」とあり,当地は慶長16年には清水光氏の家臣伊藤半兵衛が知行するところであったことがわかる。正徳2年柏沢村,元禄14年真柄村を分村。当村は古来より最上川水運の要地で,宿駅として栄えた。古口が宿駅として整備されたのは,享保8年新庄藩がこの地に口留番所を置いてからである。古口番所は川船改所を兼ねており,川船荷物の出入りを監視した。船の停泊した宿を船宿といったが,古口には船宿が3軒あり,町船のうち酒田船を山内家,最上船を大沢家,御手船を佐藤家が勤めた。しかし当地はしばしば最上川の洪水の被害を受け,宝暦7年古口村の流失家屋400余軒,天保2年118軒で,特に天保4年の凶作と洪水は惨状をきわめた。古川古松軒の「東遊雑記」(生活史料3)によると,天明8年6月に,清水(現大蔵村)から清川(現東田川郡立川町)に下る途中大雨と暴風にあい,「御三所舟」と「引舟・供舟」はそれぞれ吹き散らされてしまった。こうした際には新庄藩が瀬ごとに裸人足20人を差し出すことになっていたが,20人ばかりでは救助するすべがなかったという。古松軒の乗った船はちょうど柳の木に取り付いて,そこから木の枝を頼りに上陸した。やがて新庄藩が出した数百人の救助人の案内で,ようやく茅屋にたどりつき,焚火で身体を暖め安心した様子が描かれている。この茅屋が当村枝郷土湯で,樵夫の家が10軒ばかりあったという。「吉村本新庄領村鑑」によれば,当村の反別は明和3年60町余うち田方49町余,文化元年59町余うち田方48町余,年貢高は明和3年1,049俵余うち田方984俵余,文化元年1,042俵余うち田方978俵余,家数・人数は寛政6年148軒・804,文化9年157軒・815,文化9年の馬51。枝郷に皿島・大戸川・高屋・三ツ沢・沓喰・小戸川・土湯村がある。寺院は,曹洞宗古口山宝蔵寺・浄土真宗善念寺・真言宗正福寺などがあった。神社は外川神社がある。明治8年真柄村・柏沢村を合併して古口町村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7264662
最終更新日:2009-03-01




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