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- 宮中村(近世)とは
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宮中村(近世) 江戸期の村名魚沼郡のうち貝野村6か村の1つ信濃川左岸地名は,宮(神社)が多い村柄であることに由来する元和8年堀之内村との間の野山境争論の文書が初見(藤田家文書)はじめ高田藩領,天和元年からは幕府領村高は,「正保国絵図」90石余,「天和高帳」では貝野村の一部,「元禄郷帳」121石余枝村阿寺分は村の西方の山あいにある天和2年検地では田畑屋敷合わせ反別13町余・阿寺分5反余,のち宝暦6年新田検地で新たに27町余が打ち出された元禄7年改村鑑によれば,家数13(本家11・神主2)・人数150,馬23,阿寺分は家数1・人数16,馬1鎮守は矢放社・諏訪社,阿寺に熊野三社庄屋は貝野6か村の長百姓が輪番で勤める善光寺街道川西通りが通っており,古来から対岸小原村との間に渡船場があり川東通りとも結びついていた鮭漁をはじめ川漁が盛んであった信濃川沿いに水田が多いため,洪水のたびに流失を繰り返した川上に鷹の巣という難場があり,急峻な高井岩山が信濃川へ落ちこみ,景勝の地として知られていた江戸中期以降は貝野村の一部となったと思われるが(天保郷帳),その後も独立して扱われることがあった |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」