ケータイ辞書JLogosロゴ 山形(近世)


山形県>山形市

 江戸期の城下町名。山形藩領。はじめ最上氏領,元和8年から鳥居氏領,以後保科,松平,堀田氏と続き,弘化2年からは水野氏領。最上氏の築城以来町割りが行われ,さらに鳥居氏により町の拡張,馬見ケ崎川修築,街道整備などを通し山形城(霞城)の城下町として発達。町数は江戸期を通して30〜33町。郭内二の丸には藩重臣の屋敷が置かれ,三の丸郭外の南北に通じる街道に沿って南西から上町・五日町・八日町・十日町・横町・七日町・旅籠【はたご】町・六日町・四日町・宮町などがある。東部の十日町から七日町通りの東裏には蝋燭【あかし】町・銀町・塗師【ぬりし】町・桶町・檜物【ひもの】町などの職人町がある。また他にも職人町として鉄砲町・鍛冶町・銅町などがある。元和年間の在町分限帳では町数31,屋敷数2,319軒半,検断41,人数1万9,796。藩士を合わせると城下の人口は3万人近いと思われる。寛永13年の領地目録(家世実紀)では城廻りとして十日町以下28町が記されている。元禄年間では町数30,屋敷数2,507軒半,家数2,157軒,町中人数1万3,032,高2万4,048石余(山形城下新古銘細記/山形市史資料40)。延享3年では屋敷数2,037軒半,人数1万2,586,高1万9,905石余(山形市史)。天保13年の村山石高帳では町数29,高2万4,483石余。町内には家主とわずかの借家・店借,百姓がおり,町年寄以下検断・組頭などの町役人がいた。また各1〜2か所の自身番所・辻番所が設けられていた。職人町は塗師町・蝋燭町・銀町・桶町・檜物町・鍛冶町・銅町・三日町・小荷駄【こにだ】町の9か町であり,領主の御用を勤める「御免町」であった。塗師町は御台所の箸削り,三日町は伝馬を,銅町は銅師御用などを勤めた。また小荷駄町には運送業者が集住し,旅籠町は本陣をはじめとする宿屋町であった。八日町は出羽三山詣での道者宿があり,夏の参拝時にはたいへんにぎわった。城下の商品取引は市場町で行われた。二日町・三日町などの月3回の定期市が立ち,町の中心部の十日町は9と10の日のほかに晦日も市が立てられ,月6〜7回の六斎市であった。そのほか,小橋町は7月3日から10日間,北新町・北肴町は7月17日から7日間といった特定期間のみの歳市的な市もあった。この市場のうち最も繁盛したのが紅花【べにばな】市であり,5月末頃から七日町・十日町・旅籠町で花市が開かれた。「松の木枕」には七日町について,紅花時分の最中には市が立ち,京都より紅花仲買いの旅人も下って来るとし,「其時分は男も女も狂人のごとく姿を崩し,いつ櫛の歯入たる儘やら赤裸に成,何か一ケ月の儲が一年中の暮しとなりぬこと故,前後を争ひ親兄弟の見境へもあらばこそ,我劣じとの買ふことなり,昼夜の境なく賑ひ申なり」と繁盛する姿が描かれている(山形経済志料)。享保年間には紅花商人が50〜60人もおり,紅花生産が最も盛んであった。江戸後期には干花加工の農村普及と在方新興商人の台頭により,城下の市も衰退していった。城下は延享3年,天明3年などに町屋や家臣屋敷などが打毀しにあったが,享和元年の村山一揆では約2,000人の徒党が銅町先の沖原村(落合村枝郷)に集まり,藩兵警備の中を宮町境まで突入したが追い返された。藩は徒党に備え,町人足を約2,500人ほど動員した。城下町は明治5〜9年に一部が合併・整理された。明治5年小姓町,同7年香澄【かすみ】町,同9年肴町などが成立し,町数31となった。明治6年町内各地に尋常小学校5校が設立された。旧山形県を経て,明治9年山形県に所属。同9年初代県令として三島通庸が赴任すると,大土木工事を強行して,町北方の万日河原に洋風建築の山形県庁および官庁街を建設。明治11年には警察本署・師範学校・済生館病院などが設けられた。同17年山形中学校創立。明治11年南村山郡に所属。同22年山形市となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7265143
最終更新日:2009-03-01




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