ケータイ辞書JLogosロゴ 横山(中世)


山形県>三川町

 戦国期から見える地名。櫛引【くしびき】郡のうち。元亀元年と推定される9月晦日の雨順斎(本庄繁長)宛小笠原氏隆書状(本間美術館所蔵文書/県史15上)に「竹次其外土佐林之面々,昨夜亥刻大浦を罷除,横山之地馳入候」とあるのが初見。同書状は,対立していた尾浦城(大浦城,現鶴岡市)の城主武藤義氏と藤島城(現藤島町)の城主土佐林禅棟らが,越後(現新潟県)の上杉謙信の調停に従い,和解のため尾浦城に相会したが,不測の事態となって土佐林氏・竹井氏が同城を逃れ,横山城に遁走したことを報じたものである。また元和8年,最上氏旧家臣の金右馬允が酒井家に提出した功名覚書に「庄内ノ内,藤島ト申処ヘ,最上ノ御人数働き被成候時……横山前ニて首一つ取」とあり,同じく平藤仙右衛門功名覚書に「池田与右衛門と申者,横山前湯の沢ニ而,某年廿四の時打申候」「かく田千助と申者,横山地蔵堂前ニ而打申候」とある(筆濃余理)。これらは天正年間,山形の最上氏と大浦(尾浦)の武藤氏の争乱の際に当地も戦乱の場となったことをうかがわせる。天正18年,上杉景勝・大谷吉継により庄内の検地が行われたのに対し,一揆が起こったが横山もその拠点となったという(大泉叢誌)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7265268
最終更新日:2009-03-01




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