ケータイ辞書JLogosロゴ 赤城新田(近世)


福島県>会津坂下町

江戸期の新田名重門治原【じゆうもんじはら】分とも称した会津地方中部,只見川下流西岸の河岸段丘上に位置する河沼郡のうち会津藩領野沢組に属す新田高は文久2年の検地帳で36石余化政期の家数2軒(新編会津)片門村の新田で,文久2年にはじめて検地が行われた「新編会津」には,「寛政五年府下北小路町検断赤城惣右衛門と云者,村の未申の方十七町,重門治原の中を新墾し,赤城新田と名付く」とあるしかし赤城家文書によれば,当新田の由来は次のようである会津藩士赤城氏が宝暦6年に重門治原の開発を願い,明和5年に至って許可され原野39町7反余歩を与えられた同年に菅沢堤を築き馬立山に188間の隧道が完成するが,安永2年に赤城氏自宅が火災にあって一時中止したその後寛政5年,保科正之の霊廟見禰山の土津神社の御神料新田として再開発を願出て,町奉行から5年の間年貢の半減を認められ,同7年には阿良田堤が完成し水路13町55間が開削された同10年に赤城氏は若松から移住し,藤村からも1戸が移住して2戸となり,御神料として特別な保護をうけた以上,赤城家文書と「新編会津」の記事から,当新田は江戸中期の開発にかかるが,寛政年間頃に再開発が行われ,幕末に新田として高入されたことがわかる明治初年に重門治原村として片門村から分村
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7265411
最終更新日:2009-03-01




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