ケータイ辞書JLogosロゴ 稲村(中世)


福島県>須賀川市

 南北朝期から見える郷村名。岩瀬郡のうち。文和2年5月日の石河兼光軍忠状(遠藤白川文書/県史7)に,「同(観応二年)十二月廿三日大将山道稲村御越之時,御共申畢」とあるのが初見。陸奥国府多賀城で南朝方の北畠軍に敗北した奥州管領吉良貞家は,稲村に入り戦備を整えてから攻勢に転じている。これは当時岩瀬・安積郡が北朝方の有力拠点であったためである。「鎌倉大草紙」によれば,応永6年春に鎌倉公方足利満兼の弟満貞が稲村館に下向し,稲村御所と呼ばれた。従来の説では稲村御所を足利満直,篠川【ささがわ】(郡山市笹川)御所を足利満貞としているが,「県史1」は稲村御所を満貞,篠川御所を満直としている。下向の地として稲村・篠川が選ばれたのは,足利氏と深い関係にあった二階堂氏・伊東氏の所領であったからであろう。応永11年7月日の仙道諸家一揆傘連判状(結城古文書写/県史7)には,安積・田村・岩瀬郡の国人層の連判に二階堂氏の「稲村 刑部少輔行嗣」の名が見える。この一揆契状は,稲村・篠川両公方擁立のためのものと推定されている。岩瀬郡は鎌倉初期以来二階堂氏(行村流)の所領となっていた。「吾妻鏡」建保元年3月17日条に見える泉親衡の乱にくみした和田平太胤長の配所は,当地に比定されている(県史1)。戦国期には二階堂氏の一族保土原江南斎が活躍した。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7265803
最終更新日:2009-03-01




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